OB会通信15号

[会員情報]

 (1)  授章   授章おめでとうございます。

      29年度春の叙勲 瑞宝小綬章 氷田 正男様 

 (2)  訃報 謹んでお悔やみ申し上げます。

      柳澤 重夫 様(S.61烏山工 )  平成29年1月 逝去

 会員の皆様方で会員に関して何か情報があれば幹事のだれでも結構です。ご一報ください。

 

Ⅱ 教育情報

 

会員活動 (平成29年春 総会報告)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本年度のOB会総会は、昨年の総会でのアンケートの結果、「昼間で、駅に近い処」ということで、5月13日(土)午後1時から、アルカディア(旧私学会館)にて開催いたしました。

 出席者の顔ぶれは、昨年とほぼ同様ですが、今年は赤石 定治先生、大塚 健一先生が新たに会員として加わり会に新風を吹き込んでいただけるものと期待しております。他の会員加入予定者、宮下 義弘、武田 尚、の2名の方々は都合で欠席されました(近況報告・参照)。

 会員の皆さん方は、集まれば直ぐに昔の仲間に戻り楽しく情報交換や教育談義に花が咲きました。また、予定された議事、活動報告・会計報告・活動計画などは、次第に従って、滞りなく全会一致で全て承認されました。今年度も、活動としてOB会旅行を予定しております。計画がまとまりましたので、ご案内いたします。多くの会員の皆さんの参加をお待ちしております。 幹事長

 

  学校訪問余話 前回(OB会通信№14)に続く

  【都立羽田工業高校】【都立鮫洲工業高校】

 都立羽田工業高等学校は前身である東京府立第二化学工業が昭和17年に設立され戦災に会い、各地を変遷しました。名称も都立三鷹工業、東京都立京橋化学工業工高等学校、銀座新橋にあった紅葉中学に間借りし東京都立京橋化学高等学校となり、そして昭和349月東京都立一橋高等学校の機械科と合併して東京都立羽田工業高等学校になったのです。その全日制は普通高校の都立羽田高等学校全日制と統合し「都立つばさ総合高等学校」として平成14年に同じ敷地内に開校している。一方の定時制はつばさ総合に移転していたが、平成19年(2007)に閉校し学籍を六郷工科に引き継いでいる。  

 定時制の単独校であった鮫洲工業高校も前年の18年に閉校し翌19年に六郷工科に学籍を引き継いでいる。そしてその敷地には新装なった東京都立産業技術高等専門学校が建っている。一般に高専と呼ばれ工業高校と共に工業人材を輩出していたこの学校も、当初は都立工業高専(品川キャンパス)と都立航空工業高専(荒川キャンパス)に分かれていたが、平成18年に統合・再編されて現在の地に残っている。

 【都立科学工業高校・江東工業高校】

  前号で紹介した東京都立科学技術高校は平成134月に、江東区大島一丁目に開校しているが、この地は都立江東工業高校が建っていた場所である。平成99月に策定された「都立高校改革推進計画(第一次実施計画)」により都立科学工業高校と江東工業高校を発展的に統合し、新しいタイプの高校として設立された学校である。

  都立化学工業高校は大正912月に設立許可が得られ、翌大正91902)年4月に東京府立化学工業学校として設立されている。当初は府立実科工業学校(現:墨田工業高校)を仮校舎としていたが、同年7月に校舎落成と共に化学工業のあった江東区千石三丁目に移転している。その後、関東大震災による校舎全焼や戦災により構内設備の殆どを焼失するなど数々の試練を経て、戦後、新制高校として校風を受け継いできた。質実剛健をモットーとして続いてきた化学工業も、平成133月でその81年に渡る歴史の幕を閉じ、その敷地には今、東京都立江戸川高等学校が建ち、地域の普通高校として学校教育が継続されている。

  都立江東工業高校は昭和162月に東京市立城東工業学校として設立許可を受け、同年4月に東京市城東区亀岡国民学校を仮校舎として設立されている。その後、1911月に受けた空襲により生徒が犠牲になったり、20310日の東京大空襲により校舎はもとより諸書類を炎上させてしまうなどの苦難を経て、224月に現在地(当時:城東区大島町1-59・現在:江東区大島一丁目)に独立校舎を得ると共に、25年には校名も東京都立江東工業高等学校と改めている。以来、機械系学科を主とする特色ある学校として地域の方々に親しまれてきましたが、上記実施計画に基づき科学技術高校として蘇っている。

 江東工業高校が有った頃、校舎の北側には広大な民間の工場があったが、その地も再開発され、今では巨大なタワーマンションが校舎を見下ろすように建っている。周囲には整備された公園も点在し、昔の工業地帯の面影は無くさながら文教地区の印象を与える地域へと変遷している。

  私見であるが、工業技術とて科学技術の一部であり、この地に工業を俯瞰する形での学校が創設された事を素直に喜びたいと思っている。(文責 毛利 昭)

 

 Ⅴ 会員投稿

      ・「森信三訓言集」に出会い、心に風が吹いた 國廣 宗猷

  2月の初めに河津桜を見に伊豆に出かけた。桜祭りの前だったので人通りも少なくて、ゆったりとした気分で満開の桜を愛でることができた。桜の花は、花を早く咲かせたいと思って、水をやり、肥料をやっても花が咲くことはない。寒さに耐え忍んで営んできた後にパットした姿を見せる。自然の力にはかなわない。感動がある。

  桜と菜の花のコラボレーションに心が癒された後、御殿場にある「さわやか」というハンバーグ店を目指した。ここは牛肉だけで作ったものを炭火焼きで食べさせる店とあって1時間半待たされた。超人気ぶりである。春の香りのするイチゴジュースと「げんこつハンバーグ」の味はなかなかのものであった。

  待ち時間の間に、ブックオフセンターに立ち寄り、本を探していたら、「森 信三訓言集」という本が目に入った。早速手に取り購入した。教育界から離れてかなりの時間がたち、頭の中はさび付いている。いまさら、哲学などしなくても生きていけるのだが、後期高齢者の年代を迎え、これから自分がどう悔いのない人生を生きるかは、再度見なおした方がいいのかもしれないと思いページをめくった。

  森信三訓言集のその書き出しは、「人は肉体的には一度より誕生しないが、精神的には幾度も誕生することができる。一日一日が精神的な誕生でなくてはならぬ。」であった。これを見て、心身ともに健全であるために、これからでも精神的に生まれ変わるためにあらためて哲学してみようという気になった。歳をとってくると人生は熟してくる。その時期を迎えたからこそ見えてくるものがある。これまで私にとって、学徳のある森先生や安岡正篤先生の書かれた著書は、いつも私を「なるほど」と感銘させる。人生を送るにあたって、常に現実に向けてどう踏み出せばよいかという手引きとして机のそばに置いてある。  こころの師を持たずして道に迷う人は沢山いるなかで、こころの師に会えてきたのは幸せである。師は一人あれば足りるというが、森先生の本は読みやすくて、わかりやすく師として尊敬に値する。

  森信三先生は、大正12年に京都大学哲学科に入学し、西田幾多郎先生の教えを受けている。昭和20年代を神戸大学教育学部の教授として学生に対し教育について講義をしている。森信三先生の著書には、「修身教授録」「人生二度なし」などがある。私の校長時代、「修身教授録」を読みながら朝礼で話す内容を探したものである。しかし、もう内容は覚えていない。ただ一つだけ記憶にあるのは、「学校に来て、何も面白いことはないし、苦しみの連続だと思っている人に話します」ということで、10分間話をした。「自分を認めてくれなくて面白くないという人がいるが、この世の中は他人をちやほやするようなシステムにはできていない。自分の良いようには周囲がさせてはくれない。苦しみの連続だという人は、自己中心で人のために尽くすということがわからない人である。多少とも人の気持ちがわかりだすと自然に人のために尽くそうという気持ちになる。どこまでも技術を身に着け、自分の職業に誇りを持ち、多少なりとも世に尽くす人間になれ。」というような話をした。「修身教授録」の本の内容は、読む人を「なるほどそうだよな」と十分納得させ、感心させるものばかりであったことは記憶にある。

 森信三先生の講義の一つに「将来を見る」というのがある。その中に、「真実をつかむには自己を深めるしかない。何事にも人柄が出る。若い時捨て石を打たなかったところには容易に切り込めない。40,50歳を過ぎてから捨て石は生きてくる。」というところがある。当たり前のことだが熟年を迎えて意味がよく分かった気がした。

 私は、森先生の本を読みながら人生を振り返ってみた。動物の中でも人間だけが過去を悔い、未来に不安を持つという。今をしっかり生きなければ明るい未来などない。今をどう生きるかが課題だからである。

 私の人生の幸福は、教員になりたての頃、先生としてやっていけるかどうか不安でたまらなかった時期に出会った一人の英語の先生がいる。放課後、喫茶店でよく夢を語り合った。中教審の46答申等も喫茶店で読みあった。そのお陰でこれまで挫折することもなく希望を失わずに頑張ってこれた。その頃は、その英語の先生のようになりたいと思って頑張った。そして30歳代は、教育研究会があると聞けば出かけ、生活指導研究会といえば飛んで行った。そんなことを10年もやれば基礎はできてくる。その10年の頑張りが一人前にさせてくれたように思う。そして、40歳を過ぎてからの10年間にまた新たな広い視野にたった沢山の素晴らしい諸先生方に出会い、指導を受け、また励ましを受けて成長した。そんなことがあり、校長退職後の5年間は、教職員センターで後輩の管理職の育成に当たり、70歳までの5年間は大学で学生と向き合うことができた。しかし、70歳を過ぎてからは、職業もなく、女房にも先立たれ、毎日何のために生きて行ったらいいのかわからず、じたばたもがきにもがき今もそれが続いている。これまでは職業柄、何か偉そうなことを言っていたかもしれないが、一人になったら何もできない自分に気づき、俺はこんなにバカだったんだというのがよくわかった。

 そこで森信三先生の著書を紐解きながら、「人生再出発」することにした。自己を高め、愛・誠意を持った生き方を心がけ、それを実行に移すことを腹に決めた。

  森信三先生は、「人間は、生まれ持った天分を生かし、世のため人のために尽くすしかない」という。職業を持っている間は、職業を通じて、世のため人のために尽くせたかもしれない。しかし、今は何もない。でも「九牛の一毛でもよい、人につくすことである。」という。人生は二度とない。悔いのない人生を送るには、強く生きるという気にならなければ、男らしい生き方はできないであろう。

 しかし、強く生きるには、耐えなければならないことが沢山ある。人生の冷ややかなこと、苦しいこと、煩わしいこと、閑に堪えるなどである。どんなに嘆いてみても幸せはやって来ない。人間は生きているだけで価値があるというが、出逢い、別れ、修羅場、恋と常に闘わなければならない。そんな苦しみに耐えてこそ一人前というが、耐えようとする時には、酒を飲むか、趣味に没頭するか、自分を見つめ直すかである。そしてこれまでに色々と試してみたが、酒をいっぱい飲んでもみても、碁をやってみてもゴルフをやってみても気が納まるときはない。酒はその時だけだし、趣味も凝りに凝れば何か見つかるのかもしれないが、充実するところまでには未だたどり着いていない。しかし、森信三先生のような本を読んで自分を見つめ直すと心が落ち着く。森信三先生は、「本を読まない人は、一人前の人間のように見えるが、瀕死の重病人みたいなもの。精神的に充実した健康体とは言えない。本は心の養分として常にこれを摂取しなければならない。」と諭してしている。さらに、「人間は食いだめはできぬ。その時その時自分のなすべきことを正確に行うことである。生きているうちにひたすら修行せねばならぬ。芸術など、名人の気迫に触れることによって魂をゆすぶられるのもよい。」とある。私はよくCDをかけっぱなしで生活しているが、音楽は、傷ついた心に共振し、人の心を慰め、励ましてくれる。

 これまで、とかく自分の生きた方はどこにあるのか指導書を見つけまわってきたが、森信三先生の著書に出会って、楽しみはいつも自分の中にあることに気が付いた。人生は、知識の量や成績の良し悪しではない。本物に接し、物事を感じ、考え、創造していく力であることを知らされた。深く自分の身に備わったことが自分自身を支えてくれるのであろう。星はきらきら輝いているけれど孤独である。別に星同士が競争しているわけではない。楽しくやるかやらないかは自分の気力だけ、自己責任かもしれない。

 私が校長を退職するときの年賀状に、「これからは『晴耕雨読』に徹して生きていきます」

 と書いた覚えがある。しかしその10%も実現はしていない。言葉だけが先行し、実行が伴っていない。ただ、「自然と共に生きる」とか「楽しみは田園にある」という言葉はよく耳にする。人間もまた自然の一部であることを自覚しながら、天地の恵みに感謝して生きている。人間の肝臓は、夜の1時や2時ごろ自然に回復を図っている。その時間の酒や大食いは避けている。また、心臓や大腸のために早起きを心がけている。ただ健康だけに目を向け生きることだけが目的であれば生産的なことは何もない。晴耕雨読は、正解だったかも知れない。嫌いだった野菜を口にするようになったし、地域の人に喜ばれたりする。

 心身ともに健康に生きるためには、毎日修養を積み重ねるしかないのであろう。身体のために、週1回の水泳を続けている。森先生の著書にも書かれているが、吉田松陰の「小人が恥じるのは、自分の外面である。君子が恥じるのは内面である。」という言葉を大事にしている。良い本は、疲れを癒し、人生に味付けをし、光を与えてくれる。

 森信三先生の著書に出会って、私の心の中に新たな風が吹き抜けていった。これらの本の他に、「菜根譚」、「酔古堂剣掃」なども心の栄養になる本であった。

 これらの本がなかったら今の自分はどうなっていただろうと思うとぞっとする。「『朝聞夕改』・朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という言葉があるが、身に染みる。今は、悩むことも食べることを忘れ、自分を高めることを楽しみたい。ただ、人生を潤すためには趣味は欠かせない。現役の時は、碁やゴルフ、鮎釣りなど沢山の趣味があり老後は困ることはないと思っていたが、膝変形関節症を患ってからそれらは何の役にも立たない。今はカラオケに夢中である。趣味は凝らないと味がわからないようである。 29..1                          

 

・会員投稿               「教職51年間」              

  10年くらい前から始めた「川柳づくり」の応用です。「会通信の埋草に」でもと思って投稿します。  秋富 勝

            小学教員(105)                中学教員(35年)

        学制が変わり十九で教員に          小から中ベビーブームで転勤し

        勤務校が母校に決まり逡巡し         補修をして合格を増す努力した

        一日中児童と過ごす日を続け                            

                            休日にみなと一緒に山川へ

        宿直時は遅進児童の補修した            高校教員(20)(本所工)

        救助員の資格を取って伴泳し         中から高進学率が可能にし

        年一回初教え子と会っている         教壇で返答できず立ち往生

                              実力の養成目指し国試受け

                              取得した資格役立ち好授業

           高校教員(20)(本所工)             

        資格生かし無線クラブを活性化           管理職(7年)

        半年間テレビ出演実施した          首相等の学校視察可能にし

        趣味生かした図解の本が好評得        希である校長代理長期間

        韓国語に翻訳された本もある         都や地区の電気教育リードし

        校務では教務主任を歴任し

  

        大学講師(10年)

       他校種での経験が生き大学へ

       シラバスの必要論じ実施みた

       4校種の経験が生き叙勲受け

  

Ⅵ OB会旅行のご案内

  年度のOB会旅行が下記の要領で実施することになりました.多くの方の参加をお待ちしております。

    日 時  平成291023()24()

    場 所  湯河原  花長園  湯河原駅より送迎バスあり

             神奈川県足柄群湯河原町宮上656    ℡ 0565-62-3155

    集 合  湯河原駅改札口 13

    費 用   12000円程度

    参加いただける方は、910日までに、幹事に(誰でも結構です)ご連絡ください。

    なお、幹事は昨年同様、奥村、石井、石坂、木暮、國廣、髙間、橋本、毛利、水村、豊田の10名です。

  

Ⅶ OB会のホームページを起ち上げました。会員の皆様はぜひ一度ご覧ください。

   「東京都立工業高等学校長OB会」で、グーグル・ヤフーでもご覧になれます。

   なお、URLは、https://tokougyoutyo-obkai.jimdo.com   です。