OB会通信14号

会員情報

 a平成28年度 勇退者  ※長い間ご苦労様でした。

   宮下 義弘 様(練馬工) 、 赤石 定治 様(科学技術高)、武田 尚 様(八王子桑志)

 ()喜寿の祝い  ※おめでとうございます。

   北島 敬己 様

 ()叙勲

 (d)ご逝去  

 教育情報

  29年4月工業系校長の移動

 練馬工業高等学校 守屋 文俊 (東京都教育庁指導部)

 足立工業高等学校 小堀 隆  (杉並総合高等学校 副校長)

 科学技術高等学校 山下 康弘(本所高等学校)

 1、会員活動報告

  親睦旅行」

  親睦旅行も今回で3回目となった。

  平成28年10月23日(日)~24日(月)

 参加者:石坂、小林、国廣、木暮、髙間、豊田、橋本、萩原、毛利、の9名

 
 参加者が10名を割ってしまったのは少し残念ではあるが12時丁度に箱根湯本駅に集合。

  はつ花蕎麦で昼食、ビールで乾杯して気合を入れた後、徒歩でぶらぶらがやがやしながら宿泊の南風荘に到着。一風呂浴びて各部屋にて雑談をしているうちに夕食になり、酔いが回るほどに話が盛り上がりました。夢中になって誰も写真の記録をとっておりませんでした。

 盛り上がりの余波は、部屋に戻り久しぶりに全員参加の教育談義に、教育論ではここぞ専門とばかりに和やかの中にも妥協を許さない真剣なものがありました。

 第2日は、バスで芦ノ湖へ、箱根神社を参拝の後、成川美術館で静寂なひと時を過ごしました。

 昼食後、雨も本格的に降り始め遊覧船で湖尻まで行き、流れ解散をしました。

2、現役校長との懇談

 2月2日懸案であった、OB校長と現役校長との意見交換(懇談)会を行いました。

 OB校長会からは、髙間他3名。現役校長会からは 佐々木 哲校長(都立六郷工科高校)、福田 健昌校長(都立葛西工業高校)の2名の計6名で初顔合わせを行いました。

 話が急であったこともあり、勤務時間を考慮し、18時30分から、工業教育会館近くの居酒屋で行いました。

 OBもお二人とは顔見知りであることもあって昔話などで話が弾み、佐々木校長から現役校長会の活動状況や職場の状況などの話を、一杯飲みながら気軽に話していただきました。また、そんな中から①都工業校長会としてHPを作ったこと。②機会があれば校長会へ来て、話をして頂きたい③教育管理職選考の面接試験の練習を行ってほしい、等の話がありました。また、OB会との交流・支援など必要な時には遠慮なく幹事に相談してほしい等々の話をしました。

 次回は予め日程を決めて、多くの方が参加できるように呼びかけを行ってゆきたいと思います。

3、「学校訪問」余話 この投稿は2回にわたって掲載の予定です。

 都立工業高校長OB会の会報とも言える「OB会通信」は、前幹事長小林一夫先生が創設した広報誌である。会員の投稿による消息や現今の教育界の情報提供を柱に記載されている。会員諸氏のように都立高校長を退職され教育界から距離を置いた身ともなれば、気にはなりつつも都立高の現状に深入り出来なくなるのは致し方のないところでもある。その中の「気にはなりつつ」にスポットを当て都立工業高校の現状をレポートしたのが「学校訪問」記である。

 高校改革の名の下に、多くの都立高が近隣複数校の統合あるいは改変、更には廃校へと改革が進行し、平成2711月に「都立高校改革の実施計画案(最新版)」を公表し、更なる改革へと舵を切っている。これまでの専門高校軽視(あくまでも筆者の見解)から多少は脱却しているとはいえ、普通高校重視に変わりはない。評価できる点と言えば、葛西工業高校と多摩工業高校にデュアルシステム科を導入するなど、これまでの実績を評価した改革が進みつつあり、改革を推進してきた身としては嬉しい便りとなっている。

 学校訪問の欄も最初は王子総合高校(前身:王子工業)、次いで六郷工科高校(前身:港工業他)、そして前回の科学技術高校(化学工業・江東工業)と3回の掲載を経てきた。今後も本特集は継続していく予定であるが、訪問日程等の調整が思うように行かない面もあり苦慮している。また、学校訪問を行いレポートを纏めるのは幹事が交替で行っているが、難しい面もあり会員の協力を得たいとの想いもある。

 筆者は上記3校への訪問を行い、レポートとして記事を書かせていただいた経験を有しているが、先輩諸氏にとって見れば「旧校舎あるいは旧敷地はどの様になっているのであろう」との関心も深いのではないかとの思いに至り、この度、訪問した3校だけではあるが、その関連を含めた現状をレポートしたいと思い筆を執った次第である。

【都立王子工業高校】

 学校訪問第一号の学校である。訪問記にあるとおり校舎は「東京都立王子総合高等学校」と名称は変わっているが当時の北区滝野川三丁目が所在地となっている。総合学科と言えば近隣の複数校による統合が主であるが、王子総合の場合は王子工単独での改変となっている。当然、広いグランドはそのままで、校舎の配置も大きくは変わっていない。生徒募集を一年間休止し改築なった校舎は窓も大きく明るい雰囲気となり、グランドに続くメタセコイヤの並木道に映えている。当時、正門近くにあった坪庭とモニュメントはそのまま残っているが、正門は東側の道路沿いに新設となり、校舎内は下足を履き替えなくても自由に出入りできるようになっている。また、校舎内にはメモリアルコーナーがあり訪問者にも対応できるようになっている。

【都立港工業高校・(都立麻布工業学校・渋谷工業学校・高輪工業学校)】

筆者が担当した学校訪問(平成2711月)記は「東京都立六郷工科高等学校」である。港工業(全日制・定時制)鮫洲工業(定時制)羽田工業(定時制)羽田高校(普通科定時制)を発展的に統合し、単位制工業高等学校として平成164月に新設された学校である。今年で12年目を迎えるが、全日制の設置学科はプロダクト工学科、オートモビル工学科、システム工学科、デザイン工学科、デュアルシステム科の5学科で、プロダクト工学が2クラスのため全体としては6クラスの大規模校である。なんともはや分かりにくい学科名であるが、プロダクトは機械科、オートモビルは自動車科、システムは電気科と読み替えれば納得がいく名称となる。当該校には定時制も設置されており、普通科と生産工学科の2学科2クラスが設置されている。

 六郷工科高校の原稿を纏めるに当たり、散歩のついでに港工業高校の校舎があった港区西新橋三丁目付近を歩いてきました。幸か不幸か筆者の居住する場所が東新橋で西新橋は至近距離にあり、年に数回は当該校の前を通りその変遷を目にしていた経緯もあり気にはなっていたが、今回訪れたときはあの古びたボックス型の校舎は既に無く工事車両の轟音が響き渡っていた。告知板を見ると東京慈恵会医科大学及び大学病院が建設されるとの事で、つい一ヶ月前に工事が始まったところでした。なんでも、平成301031日には地上14階高さ60mの建物が出来るとのことでした。閉校当初より、敷地は隣接する慈恵会医科大に売却されるのではないかなどと、噂されておりましたが現実のものとなったわけです。ひと頃は警視庁や都の外郭団体などの事務所として使われていた事もありましたが、ようやく落ち着いたと言うことでしょうか。今では基礎工事も終え、鉄骨の建て込みが最盛期となり豪華なビルが出来る様相を呈しておりました。多くの工業人材を育て送り出したこの地に、新たに医師を育てる大学が設置されることはこの上ない喜びでもあり、期待をこめて見守りたいと思っております。

 古来より港工業の建つ地を慈しむように佇んでいるのが愛宕山であります。標高26mほどの小高い丘であるが、23区内では最も標高の高い山として知られている。ビル群などの無かった当時はこの山頂から江戸湾はもとより房総半島までが遠望できたとのことである。その山頂には愛宕神社が奉られており古来より地域の信仰の場ともなっている。山頂に至るには86段の石段を擁する急坂(男坂)を登らなければならない。この石段は「出世の石段」とも呼ばれ、江戸寛永の頃、四国丸亀藩士・曲垣平九郎が人馬一体となってこの急坂を往還した故事でも有名な場所である。今は、この石段の他に女坂など徒歩ルートが三本と車道があり、簡単に往来できるようになっている。境内には社殿の他に小さな池もあり、片隅には三角点の標石も建っている。古くからの信仰の地を示すように「伊勢に七度 熊野に三度 芝の愛宕に月参り」などの碑文が立っている。

 また、幕末の動乱期に起きた「桜田門外の変」は水戸浪士たち18名による時の大老井伊直弼への襲撃事件であるが、その朝、浪士たちはこの山頂に集結し、愛宕神社に成功を祈願したと言われている。事件は万延元年(186033日の雪の日と言われるから、およそ150年以上も前の出来事であった。しかし、その場に立てば浪士の息遣いが聞こえてくるようでもある。

 港工業高校は、桜田門外の変の46年後の明治39年(1906)東京市立工業補修夜間学校としてこの地に建立されている。この僅かな期間に、幕末の騒乱から近代化に舵を切ったわが国の様子が見て取れる。刀で切り合っていた時代から僅かな間に、近代化への学舎建設に至る切り替えた意識の転換こそが、今日の日本の礎を築いたものとして賞賛したい。

 この様な歴史的な意義を持つ港工業学校も戦後の学制改革に伴い、近隣に点在していた都立麻布工業学校、都立渋谷工業学校、都立高輪工業学校の3校を統合した形で東京都立港工業高等学校として港区西新橋三丁目1813の地に設立されている。この折、それぞれの工業学校から机や椅子を肩に負って運んだことが同校の同窓会紙「港工同窓会ニュース」に載っているのを目にし、勤労動員など戦中と戦後に在籍されていた方々の苦労を推し量る機会に恵まれたことも、本稿を纏めることを依頼された賜物と感謝している。

 以来、幾多の俊英を輩出した同校であったが「都立高校改革第一次実施計画」(平成99月)で六郷工科高校への統合が決まり、定時制過程は平成14年に閉校し、全日制過程は平成15年に閉校となっている。

                                               (文責 毛利 昭)

 

4、会員投稿「キリマンジャロ登頂顛末記:毛利 昭」

 稀代の作家ヘミングウエイにその美しさを称賛されたキリマンジャロ(5895m)が急激にその姿を変えつつ有るのみならず、人類の故郷とも言えるアフリカ大陸全体が危機に瀕している実態をレポートした記事を見た。温暖化などの影響で急激に環境が悪化している実態を捉えたレポートには、積雪量が減り頂上の氷雪が消えようとしているキリマンジャロの実態と、氷雪の厚さが30mもあったものが今では10m以下に縮んでいると言う現状が語られ、野生動物は食料として供される為(ブッシュミートと呼ばれ密売されている)に激減し、ライオンなどは保護区でしか生息できず、野生本来の姿を目にした事のある現地人すら皆無に近いなどの実態が記されていた。急激な人口増加とそれに伴う都市化・計画性のない工業化・過剰な農業開発などによる森林伐採がその自然環境の劣化と消耗を促進させている現実はあるが、牧畜すらままならない人々に、「野生動物を捕ってはいけません」などと、誰が言えるのであろうか。

 以来、気になって仕方の無かったキリマンジャロへ登って見ようと言う気になったのはあるTV番組だった。とは言っても訓練は必要であり過去の経験は役に立たないとの認識が有ったからである。齢74歳を迎える歳でもあり週2回から3回程度のジム通いに加え、およそ7kg程の荷を負ってほぼ10kmの歩行訓練を開始した。これらの訓練を正月返上で取り組んだ成果は出たかに見えたが、アフリカのサミットは甘いものではなかった。

 行程はキリマンジャロ麓の村に宿泊した後は全てテントによる移動で、およそ4100mを登り切らなければならない。初日は登山道の入り口マチャメゲート(1800m)から5時間程度でマチャメキャンプ(3010m)2泊目が6時間ほどの行程でシラキャンプ(3845m)など高度順化を図りながら3泊バランコ(3960m4泊カランガ(4035m5泊目がバラフキャンプ(4640m)で、このキャンプがアタックキャンプになる。早めの夕食を済ませ仮眠を取って翌早朝0:30時にテントを発った。ヘッドランプの明かりを頼りに岩場やガレた急坂を少しずつ高度を上げて行った。

 隊員(登山ツアーに応募した方々)12名、リーダーはキリマンジャロ登山経験豊富な上山仁美さん、それに現地ガイド6名にコック2名、ウエイター2名そしてポーター31名の大キャラバンは、和気藹々と高度を稼ぎ途中でのトラブルは皆無であった。隊員は男女共に6名ずつとなっていたが経験豊富な方々ばかりで、最近はヒマラヤをヘリコプターで往還している私にとって、過去の栄冠は役に立たないことを痛感させられた。

 北には北斗七星やオリオンの星座が輝き、南にはサザンクロスが横たわり、寒空には満点の星空が広がっていた。この様な星空は赤道直下でしか経験できない天空の恵みなのかもしれない。その中をガイドやポーターが現地の唄を歌って励ましてくれる。

 稜線で御来光を迎え第一のポイント・ステラ(5730m)に着いたのが午前7:30時、そこでお茶の補給を受け山頂ウフル・ピーク(5895m)着が8:30時であった。その頃になると寒さと高度障害で意識も朦朧としていたが、山頂プレートの前での集合写真はもとより氷河の写真をカメラに収め、アフリカ大陸に残した痕跡を確たるものとしてきた。しかし、本来は山頂で「般若心経」を読経する予定であったが、その行為すら忘れてしまうほど体力の消耗は大きかった。その代わりと言っては失礼だが、隊員の中に「何時の日かキリマンジャロ山頂でキリマンジャロコーヒーをドロップで飲みたい」と言う夢を持った方が居られ、入れたてのコーヒーを口に出来たのはラッキーであった。

 一歩踏み出せば足下の砂利と共に滑り落ちそうな急斜面を下降し、アタックキャンプのあるバラフに着いたのが11:10時頃であったが、揃って昼食を共にしたのは12:00頃だったと思う。食後は横になり体を休めたかったが、そこから3時間余りをかけてミレニアムキャンプ(3700m)までの下降である。途中雷鳴が響き渡りアラレが降り出したが歩みを止めるほどではなかった。しかしこの頃になると、如何に訓練を積んだとは言え付け焼刃の域は脱しない体力づくりは破堤し、次第に歩行のバランスが崩れ転倒する危機に見舞われるようになった。そんな折、眼下にキャンプ地が見え、先行したポーターの人たちが建ててくれたテントに転がり込むことが出来た。夜来、雷鳴が轟きアラレがテントを打ち付けていたが、翌朝のキリマンジャロは真っ白に雪化粧していた。これが、ヘミングウエイが「キリマンジャロの雪」に記した「前方の視界いっぱいに、さながら全世界のように広く、大きく、高々と、信じがたいほど真白に陽光に輝いて、キリマンジャロの四角い頂上がそびえていた」そのものの風景であろうと感動した。

 雪に覆われたキリマンジャロに見送られながら徒歩でゲートまで下り、登頂証明書を頂くとともにポーターも含めた全員での解散会を行い麓の街に戻った。ホテルで休養した翌日は徒歩によるサファリである。車上や象の背に乗ってのサファリは経験した事があるが徒歩でのサファリは始めてであった。ライフルを持ったレンジャーが同行してポイントを案内してくれたが、そこにはキリンやシマウマなどが平和そうに草を食んでいた。タンザニアの国立公園や動物保護区などはレンジャーによって守られているが、区域内でも密漁は横行しているとのことである。「アフリカは世界史から消えつつある大陸」と書いたのはワシントンポスト紙だが、私たちの意識からアフリカを消し去ってはならないと強く意識した旅でもあった。