会員情報

叙 勲 綬章おめでとうございます。

    瑞宝小綬章 (平成30年春)能智  功 様(H20年 田無工

訃 報 謹んでお悔やみ申し上げます

    佐藤 暎一 様(昭和63 多摩工)平成2993

    宗村 照行 様(平成2 田無工) 平成30214

都工業校長人事異動 

      都立工芸:前田 平作(田無工より) 都立田無工:早川 忠憲(町田工副より)

都工業校長退職 東京都橘高校:牧内利之(日本史)

教育情報

  OB会旅行  実施日:10月22日()・23日(火) 場所:湯河原(花長園)宿泊代9800

 昨年は台風の為中止になりました。今年こそはと願っております。多くの参加者を期待しております。参加申し込みは幹事のだれでも結構です。電話などでお知らせください。詳細は参加希望者に後日連絡させて頂きます。

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            誰も置き去りにしない社会づくり   前回vol9からの続き  國廣 宗猷

         ~ 立ちすくむ社会に新しい風を吹き込めるか~    

 3 若者が夢や希望をもち、高齢者が安心して送れる社会を

 競争よりも共生を

 極端な表現が許されるなら、日本は、いつ果てるとも知れぬ不況の深刻さに打ちひしがれ、不安に駆られている。20世紀の終わりまでは、日本は「競争原理」の中で優位な立場を保ってきた。しかし、この20数年、日本の大企業が後れを取るようになり、大企業を支えた多くの下請け企業も、「競争」の中であえいでいる。「競争社会」とは、人間が対立しながら、生活していく社会であるから、負けた方は悲惨である。本来人間は、競争する本能よりも、厳しい自然のなかで共に協力して生きていくという力を備えているはずである。生後間もない幼児は、親の助けがなければ生存することさえできないことを想えば明らかあろう。だが、諦めたり未来への希望を捨ててはならない。成熟社会に入ったこれからの21世紀は、日本人本来の知力と創造性、勤勉さにより、新しい企業を生み、雇用回復への道が開くであろう。しかし、これまであった企業がなくなる不安もないとはいえないが、これまでとはまったく異なった時代の風景が広がることであろう。そんな未だない社会を生み出すにはかなりの苦痛に耐え、それを乗り越える努力が必要になることは当然である。「新しい酒には、新しい革袋を!」という言葉があるが、子供たちが夢や希望をもち、高齢者が安心して送れる社会という新しい酒をいれる袋をどうやって造りだせばいいか。それは、競争より共生を目指すことであり、負担意識より分かち合いの心を持つことである。これまでのシステムを考え直す時が来ているのではないだろうか。社会とは、人間が互いに助け合いながら、共同生活を営む「場」であろう。いやしくも人間が共同生活を営む社会というからには、「他者の成功に協力すれば、自己も成功する」という「協力原理」が埋め込まれていなければならない。社会の構成員として成長しなければならない。子供たちに、他者への思いやり、他者との相互理解等を教え諭す必要がある。人間は、社会を発展させ、共生しながら、心豊かなより良い社会を築き、お互いが食べていける社会をつくってきたのだから、これからもよりましな社会をつくっていけばよいであろう。ソニーの創業者の一人、井深大氏によれば、「心が発達すれば、人は自分以外の人の考えを理解し、また自分の考えを相手に適切に伝えられるようになる。」と。人間の絆こそ企業が発展する道かもしれない。昭和の時代には、土光さんのような無私の精神で会社経営に当たる人がいたが、最近は、ただ会社が儲かればいいという企業が多くなった。リーダーとしての美意識や哲学もなく、人間としての値打ちが疑われる。しかし、大王製紙の佐光正義社長は社員に、「君たちは全社員とその家族の幸せを背負っている。倒れるわけにはいかないんだ」と熱い。大王製紙の商品の内側にどんな哲学があるのか、リーダーの心がみえるようである。吉田松陰の「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし、故に夢なき者に成功なし」という言葉は心に刺さる。人間の絆を重視する「協力社会」では、政府の任務は、人間の能力を高め、人間の生活を守ることにある。「競争」は、人間の生活を効率的に営むための手段にすぎない。これを目的化した社会になってはならない。「競争社会」で敗者の烙印を押されれば、将来の不安に脅え、冒険することを控え、消費を抑制し、小さくまとまろうとする。消費需要が冷え込めば、不況は一層、深刻化する。不安は不況を生み、不況は不安を生むという悪循環が形成される。そのため、不況はますます深く長期化する。各国は、経済面では、競争から協力にむけて分かちがたく結びつく必要がある。マレーシアのマハティール首相は、1982年に、昭和の時代の日本の労働に対する真摯な姿勢、戦後の復興への熱意、愛国心、独自の経営スタイル、職場での規律を学び、国民に見習えと唱えていた。それから30数年たった現在、「日本が苦境にあるのは、経済大国への道を切り開いた自らの価値を捨て、欧米に迎合したからだ。終身雇用制などに重きを置かなくなった。政府の指導や民間企業との協力関係はいまや犯罪視される。今は、日本の過ちから教訓を得るときだ。」と苦言を呈していることを肝に銘じておきたい。

    • 「オムソーリー(悲しみを分かち合う)、スウェーデンに学ぼう

世界的不況の中で、国民が悠然と暮らす不思議な国がある。『ロンドン・エコノミスト』が「絶望の海に浮かぶ希望の島」と賛美したスウェーデンである。1930年代にも、世界恐慌から脱出しようとして世界的潮流に例外的だったスウェーデンを、早稲田大学の岡沢憲芙教授が紹介している。(岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』岩波書店、) 

 この世紀的転換期の大不況のもとで、不況と財政赤字という二重苦に苦しむ先進諸国の取り組みは、ドルという基軸通貨を握る覇権国であるアメリカをも含めて、なかなかうまくいかない。 

 スウェーデンは、ユーロに参加していないけれども、財政を再建するために、国民に「強い福祉」を実現し、協力して「強い財政」を築いてきた。

 財政再建のために、経費を削減すれば、必ず貧しい人々が痛みを受ける。スウェーデンは従前の賃金の90パーセントを保障していた失業保険を、段階的に75パーセントへと切り下げていった。このように経費を削減すれば、競争に敗れた弱者が痛みを受ける。そこで、豊かな人々は税で痛みを分かち合って欲しいとして、豊かな人々の収める所得税の税率を引き上げた。つまり、貧しい人々は経費削減で、豊かな人々は納税で、国民が協力して痛みを分かち合おうと、国民に財政再建への協力を訴えたのである。

 日本人は北欧について「納税の高負担の国々が、どうやって経済成長できるのか」という点に関心を抱くが、彼らは経済成長よりも、「尊厳をもって生きられる社会をどうやって築くか」を重く考えているのである。日本では、税や社会保険料を「負担」と考える。スウェーデンでは、社会サービスを「オムソーリー(悲しみを分かち合う)」と呼ぶ。他者に優しくし、必要とされる存在になることが生きることだと考えている。その概念が社会を支えているのである。

 こうして不況のもとで、あえて増税を断行し、財政を再建するとともに、スウェーデンは景気回復のために、経費支出の内訳を大幅に変えた。スウェーデンは国民の能力を高め、国民が協力して景気回復をはかることを企図したのである。つまり、人間の絆を重視する「協力社会」では、人間の能力を高め、人間の生活を守ることに財政が動員される。そのためスウェーデンでは、財政再建の過程で、教育・研究開発・環境・情報技術インフラ・福祉に、財源が重点配分されているのである。今の、日本のようにその場限りで財政をやりくりするだけではどうにもならない。

 

● 北欧型ワークフェア国家(新しい福祉国家)とは

日本の持つ課題には、原発、外交、社会保障、金融がある。経済に関しては、グローバル競争に耐える制度である。その背景にあるのは、日本がぐずぐずしている間に、米国、英国、北欧諸国など多くの国が経済のグローバル化に対応して市場重視の改革を進めてきた事実である。

 東京大学教授の神野直彦さんは、日本経済の処方箋として、 北欧型ワークフェア国家(新しい福祉国家)を目指し、北欧の能力開発型社会保障に学ぶべきだと提言している。ワークフェアとは、社会保障給付を支給する際に、代わりに受給者へ 就労を義務付けることである。新自由主義と決別し、失業者を再教育・再訓練して、産業構造の転換に結びつける新しい福祉国家のことである。新自由主義とは、レフリーなき競争であり、個人の自由は、すべて自己責任ということである。

グローバリゼーションのもとで、賃金が上がらない新自由主義を信仰する日本やアメリカと違って、北欧諸国の賃金は上昇し続け、高い経済成長を誇りながら、格差を縮小させることに成功している。その経済成長の源泉はイノベーション(技術革新)にある。持続的な経済成長を成し遂げるためには、イノベーションを担う人材を育てながら新しい産業を興さなければならない。単なる福祉国家ではなく、イノベーションに対応できる「能力開発型ワークフェア国家」への脱皮こそが重要なのである。この能力開発型ワークフェアは、衰退していく旧来型産業から、成長していく知識集約型産業へと産業構造を転換していくというビジョンに裏打ちされている。

高福祉・高負担の北欧式は経済のグローバル化が進む世界では行き詰るのではないか思われているが、実際は産業構造や労働市場を調整しながら経済成長を続けている。

 教育面では、フィンランドは、経済協力開発機構(OECD)による生徒の学習到達度調査(PISA)において、常に「学力世界一」として、日本でも注目を集めている。学校には、テストなどの他と比べる競争はない。

 正社員・非正規社員に拘わらず、同一労働同一賃金や、やり直し可能な「人間の成長を保障するワークフェア国家の形成は安心して働くことが出来、内需拡大にもつながるものである。

 

 大局観を持てる人材づくりが第一

  教育がとりわけ重視されているのは、経済成長と雇用確保と社会正義(所得平等)という三つの課題を同時に解決するからである。教育によって人間の能力を高めれば、その人間は雇用され、所得間格差も縮小し、生産性が向上して経済成長もする。人類の進歩も、過去の人類の遺産の上に、人類の能力が高まっていくからである。

  そのためスウェーデンでは、社会人の再教育を含む公教育の充実に全力が注がれた。それは、教育を受けてから30年間も効力を失わないような知識などない。10年も経てば陳腐化してしまう。知識はどんどん新しくなっている。日本では、途中で学び直そうとしても、暇やお金がない。スウェーデンでは、いつでも大学を初めとする高等教育機関や職業訓練機関に戻り、再教育を受ける機会が保障されている。しかも、こうした再教育は無償で、生活も保障されている。教育を高めるだけでなく、高まった高等教育機関や研究機関に蓄積された成果は、中小企業を中心に企業に技術移転されていく。世界のなかで、GDPに占める研究開発費の割合が最も高い国、それがスウェーデンである。

 「教養を高め、大局観を持て」とよく言われる。別の言い方をすると教養とは、実際の役に立たないような知識を学んでいるように見える。文学、芸術、思想、科学などである。なぜ教養が大切かというと、教養がないと、大局観とか、長期的視野とかを持てないからである。真のエリート(教養のある人)を育成し、各分野において、国をリードしていける人材を確保する必要があるからである。大局観、長期的視野は、組織のリーダーや政治家だけに必要なのではない。子育てにおいて、その子が20年後、30年後を見据えて育てるわけであるから、人間にとって教養とは非常に大切なのである。

  人間は、人間のために最高の存在でなければならない。経済のために人間があるのではなく、人間のために経済はあるのである。これからでも遅くはない。生まれ出ずる痛みに耐え、人間を中心とする社会を目指して新しい日本を作っていきたいものである。つまり、日本を「希望の島」に再生するため、「競争社会」に別れを告げ、「協力社会」への道を学ぼうではないか。                     

 

4 技術の発展の歴史

 ● 明治百年(昭和43年)は、人の手足となった近代産業の時代

 一九世紀の産業における「近代システム」は、イギリスの産業革命にみられるように、人間の体に身に着ける製品等の綿工業を基軸とする軽工業が中心であった。奴隷船の漕ぎ手が、蒸気機関などの動力源に置き換えられたように、機械に従属した単純労働に置き換えられていった。鉄鋼業を基軸とする重化学工業の時代の始まりであった。

 1968年(昭和43年)は、明治100年にあたる。1960年代は、企業や官公庁がさまざまな巨大システムを構築した時代である。その官民の組織の「システム化」を可能にしたのが、巨大コンピュータと電話回線で結ばれた端末の普及である。

 電力に依存する生活、コンピュータや電話などの情報通信網、トラックや高速道路などに支えられる流通機構等、交通や情報のシステムの運用開始がこの年代に集中した。原子力発電所の商業利用にもゴーサインが出た。霞が関ビルが建てられ、東名高速道路の完成を建設が進み、東北本線は複線化し電化された。さらに、郵便番号が導入され、ポケベルの利用が始まり、自動券売機が駅に配備された。

 また、インスタントのラーメンやカレーが家庭に普及した時代である。人類による宇宙開発が始まったのもこの時代である。現在は、宇宙空間には、開発・実験の「置き土産」として浮かぶ「宇宙ごみ」が爆発的に増え、地上のごみに加えての解決が急務になってきているが。

 明治100年という20世紀の「現代システム」への転換は、人間の手や足の延長としての自動車や家庭電器等の耐久消費財等を基軸とする大量生産、大量消費を実現した産業構造である。こうした人間の手足の代替機能を備えた消費財が、人間の生活様式に取り込まれると、人間の生活様式も、そうした消費財の購入を前提としたスタイルに変わっていった。そうした生活様式の変化が、これらの産業に膨大な市場をもたらすことになったのである。

 

● 二十一世紀は、人間の頭脳の延長としての産業へ 

 二十一世紀は、人間の神経あるいは頭脳の代わりとする、情報知識産業を基軸とする産業構造が中心となった。囲碁では、人工知能(AI)が囲碁のトップ棋士に勝利を収めている。人工知能(AI)を搭載した介護ロボットや、案内ロボットなど人間に置き換わるのもがたくさん生まれている。

 生産に欠かせなかった20世紀の旋盤は、人の熟練技術に頼り、旋盤を横に並べ、単一の製品を大量に生産してきた。別な製品を作ろうとすれば、別の生産ラインを引く必要があった。しかし、NC旋盤というこの新しい機械は、利便性を発揮し、自動化され、生産性を飛躍的に高めてきた。しかし、NC旋盤が生まれると、プログラムを換えることによって様々な製品を生産することができようになった。つまり、人間の熟練をNCに置き換えた。そのため、プログラムさえ換えれば、多種類の製品を作り出すことができる。もちろん、NC旋盤の作業者は自らプログラムを作成し、執行していくことになる。多品種少量生産を可能にし、NCという情報技術の活用は欠かせないものになった。このように、自動車や電機製品が無くなるわけではないが、産業構造は、情報知識産業へと転換は進められていくことになる。機械に従属した単純労働も、ロボットなどに置き換えられることとなった。

 

● 第三次産業革命・製造業のデジタル化・三Dプリンター

  現在、第三の産業革命が進行している。製造工程がデジタル化された技術同市が融合し始めた。これまでのモノの製造方法は、多くの部品をそろえ、ねじで留めたり溶接したりして、一つの製品に組み上げた。

 第三の産業革命のデジタル化は、コンピューター上で製品を設計し、三次元(三D)プリンターで「印刷」する。素材の層を連続的に重ねて立体物を作成する仕組みである。いまや個人で、普通の人がマウスのクリック一つで工場を動かせるのである。

 ロボットが製造できる製品はますます増え、企業は人件費の安い場所に移動するメリットはしだいに失われてきた。世界の工場と自負する中国でも、ロボット化が進みつつある。人件費の上昇圧力から解放されることでもあり、労働環境の問題からも避けられるメリットがある。手作りの部分もまだ少なくないが、産業ロボットは、高機能になり、その賃金は高くなっているので、どこで生産するかを決めるのに、給料はそれほど重要な要素ではなくなっている。

 一方、近代化や合理化の名目で新しく取って代わったシステムは、人間の「成熟」や「熟練」をたくみに排除した。JRは特急券などの予約など、端末を操作する駅員には中身や正体がわからなくても使用できるようになり、熟練は必要がなくなった。ファストフードやコンビニをはじめ、多くの業種でアルバイトや非熟練労働者がすぐに働けるのも、作業マニュアルと運用システムが完備した結果である。また何物も簡単に使い捨てられる時代になった。さらに、効率が高まった分、人減らしも始まった。

  熟練した職人の技が機械化され、システムが新しくなれば、常に人間の側がシステムにあわせる時代となる。研修や講習でせっかく身につけた技術もすぐに陳腐化してしまう。かって見かけた神業のようなスーパーのレジ打ちは、いまでは誰もがピッと一瞬で使えてしまうバーコードリーダーに駆逐された。そして、つり銭の渡し間違いを減らすために、レジのマシンが計算して必要な紙幣や硬貨をだしてくれる。今やお金を数える知能や技術すら不要になったといえそうだ。しかし、そういうプログラムを作ったのは人間である。 次回21号に続く

 

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              ネパール教育支援を終えて       前回vol9からの続き  毛利 昭

【エヴェレスト街道】

 1757年以降英国の植民地となっていたインドは、英国の技術支援を受けつつも国内に測量局を設けて、ヒマラヤやカラコルム山系の測量に着手していた。当初はそれぞれの山系に統一番号を振る形で山の識別を行っていたが、次第に現地名や関係する人の名前などに名称が換えられていった。エヴェレスト(8848m)は発見当時の測量局長官ジョージ・エヴェレストの名を冠したものである。

 

エヴェレスト東南陵を南に辿ればサウスコル(7906m)に至り、反対側の稜線を辿れば世界第4位の高峰ローツェ(8516m)に至る。景勝地カルパタールからの景観にはその右肩後方に雪を頂く斜面が目に入るが、この雪山が当時の番号を残したまま山名となったピーク38である。ちなみにエヴェレストはピーク15と呼ばれていたとのことである。インドの測量隊はカラコルムにも隊員を派遣し測量を行っていたが、その折りに振られた番号がそのまま山名になっているのが世界第2の高峰K-28611m)である。K-1がマッシャーブルム(7821mK-3がブロードピーク(8047m8位)K-4がガッシャーブルムⅡ峰(8035m13位)K-5がガシャーブルムⅠ峰(9068m12)となっており、八千メートルを超す高峰14座の名峰もこの中に含まれている。

 二十世紀に突入した頃からこれら未踏峰へのアタックが開始されるが、昭和311956)年59日に世界8位の高峰マナスル(8163m)が日本隊によって初登頂されている。登山隊の隊長が槇有恒氏、登頂したのが今西壽雄氏である。

 世界の最高峰エヴェレストへの登頂は昭和281953)年529日、英国隊に所属していたエドモンド・ヒラリー(ニュージランド人)とシェルパのテンジン・ノルゲイによって成されている。日本隊も遅れること十有余年の昭和451970)年511日に登頂を果たしている。初登攀は植村直己氏と松浦輝夫氏の二名である。山頂を目指していた植村が遅れて登ってきた松浦を頂上手前で待ち受け「松浦さん、お先にどうぞ」と声を掛けてきたとのことである。おそらく植村は日本人初の登頂者としての栄誉を松浦に譲るつもりだったのであろう。その申し出を断った松浦は、二人で肩を組んで同時に登頂する案を伝え、二人揃っての登頂を果たしたとのことである。この逸話は山男の心意気を示す美談として今でも語り継がれている。

  当然のことながら、登攀技術は元より登攀への気力もない我々が出来る事と言えば、エヴェレストを拝む地域へのトレッキング程度である。エヴェレスト街道のトレッキングは、カトマンズから空路ルクラなる村まで飛行機で飛び、そこから徒歩でカルパタール(5550m)やエヴェレストベースキャンプ(5364m)までを走破するものである。共に高度純化を入れれば10日間ほどの行程になるが、途中には山小屋が完備しており安全である。世界の最貧国と言われるこの国ですら、山小屋は個室が当たり前で、日本の様に人権を無視したような詰込みの宿泊は行っていない。

  ルクラ飛行場の滑走路はスキー場のゲレンデのように傾斜した形に作られており、着陸時は下方から登るように着陸し、離陸時は上方から降りながらの離陸となるため、効率的と言えば効率的であるが事故も多い。このルートがエヴェレスト街道と呼ばれ世界のトレッカーを呼び寄せているが、600m降って1000m登る様な登下降を繰り返しながら目的地まで登るようになっている。

  我々も何度かこのルートを歩いたが、後半はヘリコプターをチャーターしての往還が当たり前のようになってしまった。何と言っても、徒歩では2日間は掛かる山道を僅か10分で飛び越えてしまうため年配者の行程には適している。一度この様な楽ちんを覚えると人間は元には戻れず、ゴーキョ村(4760m)までヘリで向かい、写真を撮ってまたヘリで帰るなどの暴挙を行ったことも懐かしい思い出として残っている。

 この街道でエヴェレストを最初に目にすることが出来るのは、シェルパ族の村として名高いナムチェバザール(3440m)である。この周辺には景勝地として知られるシャンボチェの丘があり、そこにホテル・エヴェレストビューが建っている。富士山頂より高い標高3880mの地に建つこのホテルのオーナーは日本人であり、施設設備も充実しておりヘリポートまで設置されている。高山病の危険さえ克服出来れば簡単に世界の高峰エヴェレストや、名峰アマダブラム(6814m)の威容に向き合う事が出来る。私の友人にはこの峰に魅惑され、自家用車のナンバーをこの標高に決めた人までいる。

 先の地震ではこの街道の至る所で崖崩れや落石などがあったが、今では完全に回復している。そして、目につくのは要所に配されたゴミ箱である。ネパールもインドの影響を受けカースト制を執っている国である。ゴミ拾いなどは低カーストの仕事と捉え、一頃は、ごみは捨て放題で切望的な状況にあった。これに待ったを掛けたのがアルピニストとして知られる「野口健」氏である。私が私的に会員となっている「公益NPO富士山クラブ」の理事をも務め、富士山とエヴェレストの同時清掃を仕掛け、それを宇宙中継したことでも知られている。富士山クラブは富士山のゴミ拾いを行うとともに、富士山麓を含めた地域全体の環境保全活動を行っている。その成果として、山小屋のバイオトイレなどは当たり前になっており、五合目より上の登山道にはゴミは皆無となっている。

 野口氏が清掃活動を始めたきっかけは、外国人登山家から「日本人はエヴェレストまで富士山にしようとしているのか」と言われた一言だという。当時の登山隊は躊躇なく物を捨てて下山していたのであろう。今は一部改められているが当時の登山隊は酸素ボンベや燃料タンク等は使用後に放棄して下山していたため、それらが稜線の至る所に放置されていた。それらのゴミを掘り起こして持ち帰るのであるから登山より過酷であり危険でもある。その様な作業を繰り返すうちに現地のシェルパにも「山を美しく保とう」と言う感覚が芽生えゴミ箱の設置につながったものと喜んでいる。今ではこの街道からゴミは消え快適なトレッキングが楽しめる様になっている。「ゴミ拾い」が、何百年も続いてきたカーストの意識を変えたのである。世間の人々は「たかがゴミ拾い」と思うかもしれないが、この様な現実を目にすると「されどゴミ拾い」と言いたくなる。「ゴミ拾いは崇高な行為である」との認識が世界の人々に受け入れられる日が来ることを望んでいる。
【ネパールに命を懸けた人々】

 標題を付けた以上忘れてならないのは川口慧海であろう。彼はネパールを経てチベットへ旅した僧侶であるが、ネパールとチベット両国に足跡を残した初めての日本人としても知られている。当時は、ネパールはもとよりチベットまでもが厳重な鎖国政策をとっており、日本人の入国は不可能であった。其処へ「支那の僧侶」と偽って入国したのである。何故にその様な危険を冒してまでチベットに向かったのかと言えば「日本の仏典は中国を経由して得られた訳本であり、真の教えとはどの様なものであったのだろう」と言う疑問からで有ったと言う。彼は有能な僧侶で31歳にして住職にまで上り詰めた方であったが、仏教の原典を求めてチベット侵入を決意し、明治301897)年625日単身神戸港を発って3年の年月を経た(1890)年74日にチベットに辿り着いている。後に、この行程が評価され、西欧諸国では探検家としての知名度の方が高くなっている人でもある。

 また、本報告書でもたびたび記載させて頂いた人の中に、ヒマラヤの奥地で奮闘する日本人として、近藤亨氏のことに触れたことをご記憶の方も居られると思います。また、「こんな所に日本人」など数々の報道番組にも登場し、お茶の間の人々にも「この様な素晴らしい日本人がいるのだ」などと感動を与え続けてきたことでも知られた人でもあります。

 改めて氏の略歴を記載すると生誕は1921(大正10)年で生誕地は新潟県加茂市となっております。果樹栽培を専門とする農業技術者ですが、55歳で教鞭をとっていた新潟大学の農学部を離れ、JICAの隊員としてネパールに赴任しております。70歳でJICAを定年退職した後は単身ムスタンに定住し、極寒でしかも土漠・礫漠の乾燥地を切り開き、寒冷高地を緑豊かな沃野に蘇らせ、飢えと寒さに震える人々に夢の花を咲かせた人でしたが、昨年(20176月に96歳で亡くなっております。

 開発の拠点はMDSA(Musutang Development Service Association)と言う組織でしたが、これとて氏が私財をはたいて設立した団体でありました。この地には古くからチベットとインドを結ぶキャラバンルートがあり、牛や馬、あるいはヤクの背に荷を負わせ、数十頭もの駄獣を従えたキャラバンが往還しておりました。東にアンナプルナⅠ峰(8091m)を主峰とする山群とニルギリ(7061m)そして西にはダウラギリ(8167m)に挟まれたカリ・ガンダキ川沿いに発展した交易路で、通称ジョンソン街道と呼ばれておりました。ルートのほぼ中央部に飛行場を備えたジョンソンなる村があり、その名が冠されたものです。飛行場がある村などと言えば大きな場所を思い浮かべる方も多いと思いますが、ネパールは基本的に「徒歩の国」であり、遠隔地への旅は飛行機を使うのが一般的となっております。今では多少改良されておりますが、当時の飛行場は、カリ・ガンダキ川の河原を平らに敷きならした程度の滑走路が1本有るだけで、当然、舗装などは施されておりませんでした。

 私と近藤氏の出会いは23年もの昔に遡ります。その頃は電話すら通じない辺境の地でありました。初めてムスタンを訪れジョンソンのロッジに宿泊していた時、近藤氏から「日本の方ですか」と声をかけられたのがきっかけでした。当時は訪れる日本人も珍しかったのかも知れません。以来、公私にわたるお付き合いをさせていただきましたが、「富士山頂より高い場所で初めて稲作を成功させた」「この地はブドウ栽培に適している。今、試作中だよ」「カリ・ガンダキの川水でマスの養殖を始めたよ」など常に新しい事業への意気込みを語ってくれた。

 しかし、当初は「摘果」や「枝打ち」などは現地の人々を驚かせたとのことでありました。日本では当たり前の作業が、自然のまま、実が結ぶままの作業を続けてきた現地の人々にとっては驚異的な事であったと思います。

 ところが、その作業を行うことにより果実の大きさは倍以上にも大きくなり、市場での価格も4倍以上で売れたため、技術指導を受け入れる事になったと言うわけです。

 また、無類の勝負好きで知られ、お手合わせしたことはなかったが、碁や将棋は玄人はだしであったとの事であります。ただ、麻雀にだけは付き合った事が有りますが、随所で勝負強さを発揮しておりました。私もネパールの奥地での麻雀との事で気合が入り、国士無双や四暗刻を聴牌するなど絶好調で、徹マンの翌日は得た資金を元に馬を借り、タカリ族出生の地ツクチェ村往還の旅を楽しんだ事もありました。その折に馬の轡を取った若者が、川口慧海が修行を積んだツクチェの寺院の住職と姻戚関係にあるとの事で、その寺を訪れ仏像を拝ませてもらった事も稀なる奇遇として思い出に残っております。

 近藤氏が心血を注いだこの地は、前述した川口慧海がチベットへ入国するため数か月滞在した地でもあり、当時の寺院がそのままの形で残っています。街道沿いのマルファなる村には「川口慧海記念館」が設置され、往時をしのぶ貴重な品々が展示されております。一方の近藤氏も大学職員の肩書を投げうっての赴任であり、私の様な凡人には真似のできない行為であります。安全な場に身を置き体力の許す範囲をチョコチョコと動き回ってきた身には、何とも羨ましい人たちである。その決意は夫々が詠んだ詩に表れている。

 「平穏の余生を拒み 家を捨て 祖国を捨てて 辺境に燃ゆ」近藤亨

 「ヒマラヤの 雲の岩間に 宿りては やまとに上る 月をしぞ思ふ」慧海

  今回、7年ぶりに近藤氏の事務所を訪れたが、あの懐かしいMDSAの看板は無く、地域の航空会社の事務所に代わっていた。ネパールには鉄道が無いため遠隔地への移動は空路の方が便利であり、その為の会社は多く存在している。しかし、空港などのインフラやセキュリティーチェックなどは十分ではなく、シート数も20席程度の小型機が多く事故の発生率も高い。同行する現地ガイドが事務所の移転先を探し当てる事ができたため、その場所へ行ったが留守であった。近藤氏が健在な頃は日本人のスタッフも居たことは有るが、亡くなった今は現地の人々がその事業を継承している模様であった。開発された農場を見ることは出来なかったが、沃野に生まれ変わった地での発展を願わないではいられない。

  我々の他にもネパールへの支援を続けている方々は多く、現地にも多くの邦人が活動を展開している。我々の組織的な支援は今回をもって終了するが、ネパールへの想いは変わることはない。

 この間、ネパールへの支援を提案するとともに率先して現地で指導に当たられた小林一也氏(故人)、その活動を陰から支え「海外交流特別委員会」委員長を務めてきた堀川忠義氏(故人)、そしてその意思を引き継ぎ活動を発展させてきた石坂政俊氏に紙上を借りて感謝申し上げたい。また、支援のついでにネパールの各地を見聞できたのもこの研究会に属していたからである。私の小さな人生観を変える旅を提供してくれた研究会にも感謝申し上げる。

  我々が、研究会や学会、更には本委員会の打ち合わせの度に集まったのが千駄ヶ谷の「ハンター」なるスナックバーであった。水滸伝の「梁山泊」よろしく集まっては議論を繰り返した場所でもあった。私は飲みかつ歌った記憶しか残っていないが、その店名にちなんで「繁多」と揮ごうした小林氏の感性に敬意を表して文を閉じたい。