会員情報

 (1)  授章   授章おめでとうございます。

   瑞宝小授章 29年秋 菅原 彪 様(H7年 府中工)

 教育情報

 会員活動報告

   102223日実施予定の第4回OB会旅行は、台風接近のため中止になりました。

 会員投稿

 「学校訪問」余話    この投稿はOB会通信№14に続くものです

 【都立小石川工業高校】

 小石川工業学校沿革誌(昭和16年発刊)によれば、「本校ハ大正7年小石川高等小学校ニ併設シテ授業ハ開始サレタ。校舎ノ位置ハ小石川区竹早町109番・・明治429月ニ竣工」とあるとのことである。健在であれば、今年で99回目のお祝いとなるところであるが、その様に上手く事が運ばないのが人生であろう。その、小石川工業高等学校は平成203月末を持って、89年の校史に幕を下ろし、現在は同じ敷地内に「総合芸術高等学校」が、平成22年に開校して都立高としての機能を維持している。

 生徒間では「ジャリ工」と称されていた小石川工は、小石=砂利を捩って自虐的に呼んでいたのであろうか。その沿革を辿れば上述した如く、大正71918)年に東京市立第四工業補習学校として設立され、小石川高等小学校に併設しての開校であった。大正104月、組織を変更して「東京市立第四実業学校」と改称している。校舎も昭和39月に東京市小石川区同心町20番に新校舎を落成させ移転している。更に、文部省告示により乙種工業学校となり、校名も「東京市立小石川工業学校」と改めている。そして、昭和87月に「東京都立小石川工業学校」と改称し、戦後となる昭和21年には、東京都立本郷工業学校及び東京都立国立工業学校を廃校して小石川工に統合している。先の大戦時に受けた空襲に対し、職員が結束して火災から校舎を守ったことも沿革史には記載されている。この時には近くに住む生徒は勿論、近隣の方々も駆けつけて防火に協力し、類焼を防いだとの報も残っている。

 昭和22年に制定された学校教育法により新制中学校を併設して、校名も「東京都立小石川工業高等学校」と改称し、昭和24年には併設していた新制中学を廃止し、同年4月に校舎も新宿区富久町59番に落成させている。この時生徒たちは自己の机と椅子を肩に背負って新校舎へ移動したと言われている。その後新校舎の建設が行われていったが、敷地内に残っていた60戸の住宅移転交渉が昭和37年に成立し、翌年には住宅の移転が完了している。この代償として運動場2500坪を提供しなければならなかったなど、敷地確保には多くの困難があった事が記録として残っている。その後、校舎や実習棟などの増改築を進める傍ら、機械科を新設する(昭和38年)などの増科を図り、以来全日制は機械科、電気科、電子科、建築科、土木科(後に建設科)の学科を有する工業高校へと発展していった。定時制は独自の発展を遂げてきたが、昭和33年以降は機械科、電気科、建築科の3科を有する学校として歴史を刻んできた。

 昭和46年には、制服から私服通学が可能となるよう校則の一部を改正し、「生徒自身が考えて行動する」との理念を育もうとした。この為の条件として①通学の場にふさわしい服装②左胸に校章をつける③かばんは携行するなどの禁止の三項目を科したとの事である。同じ頃私服から制服への回帰する学校もあったが、小石川工では閉校するまでこの決まりは守られたとの事である。

 教育目標として「誠実」「自信」「健康」「規律」を掲げ、多くの人材を世に送り出し、わが国の高度成長を支えてきたが、東京都教育委員会は平成9年度に「都立高校改革推進計画」を策定し、平成1110月に公表された「同推進計画・第二次実施計画」により、都立世田谷工業高等学校と発展的に統合し、新たに「都立総合工科高等学校」として再出発する事になりました。

 新設なった「都立総合工科高等学校」の訪問記は別途掲載(会報16号)されているが、小石川工業高の跡地は前述した如く「東京都立総合芸術高等学校」の敷地として活用されている。平成24年秋になるが、「東京都立小石川工業高等学校メモリアルルーム開設式」が行われた。これに併せて、長く続いた小石川工業高等学校全日制同窓会の解散式が行われた。席上、メモリアルルームの見学に続いて、新装成った校舎を案内して頂いたが、施設はもとより設備の豪華さには驚きの一言であった。ここから世界に羽ばたく芸術家が生まれることを願っている。

 当該ホールは同窓生及び教職員OBの方々へ開放されております。ただし、見学に際しては事前に芸術高校経営企画室に電話連絡し協議するようになっております。普段は同校の会議室として使用されており、突然の訪問では対処できない場合がありますのでご注意ください。

 【追記】会員投降を読んで

 都立工業高校長OB会が発行している「OB会通信」は、大別して①会員情報②教育情報③会員活動④会員投稿で成り立っている。会員活動の一分野として学校訪問などが掲載されることがあるが、会員の方々からの投稿には素晴らしい俳句や短歌などに加え、哲学や歴史に関する著述など教養溢れる記事が多く興味をそそられる。

 先ず、会報15号に掲載されている「森信三訓言集に出会い、心に風が吹いた」(國廣宗獣先生)には心が揺さぶられた。恥ずかしながら森信三なる人物を私は知らなかったし著書にお目にかかった事も無い。多分、何処かで訓言の一部は目にしたことがあっても、彼の著書まで購入しようと言う気にはならなかったのかもしれない。京大で西田幾多郎に教えを受け、神戸大学で教鞭をとったとのことであり、広く知られた哲学者であった様である。國廣先生自身が校長時代に朝礼などに引用した事もあると述べ、森氏の本を読んで自分を見つめ直すと心まで落ち着いてくるとも書いてある。

 この文に出会ったとき思ったのは「この本は必ず購入しよう」との心の動きであった。しかし、あれから2ヶ月もの時間が経過しているにもかかわらず、未だ書店に行って当該著者の本を手に取ったことはない。いずれは購入し訓言に目を通すことにはなるであろうが、森信三氏と彼の著書をOB会の会報で目にすることが出来たことを嬉しく思っている。

 また、会報16号に載っている「幕末維新期日本一の工業王国を築いた肥前・佐賀藩の先進性と秘術力」(秀島照次先生)には驚かされた。確かに薩摩藩、長州藩、土佐藩に比べれば肥前佐賀藩は影が薄いが、その技術力と藩士の意気込み、更に藩士のリーダーとして藩を引っ張った、鍋島直正の時代の流れを見抜く先見性である。彼は佐賀藩第十代藩主としての立場は有ったが、肥前の妖怪とも言われた所以が記されてあった。

 私自身にも九州佐賀藩の血が流れているのも関わらず、この様な史実は知らなかった。恥ずかしい限りであるがこの歳になったとは言え、この会報を通じて故郷の歴史に触れることが出来たことに感謝したい。また、平成1010月に93歳で亡くなった父の事を思い出させてくれる切っ掛けと成ったことにも感謝申し上げたい。今後秀島先生にお会いすることも多いと思うが、同郷の先輩として、佐賀の思い出を肴にしながら杯を重ねたいと思っている。

 父が佐賀県武雄市を離れ、東北山形の地に根を下ろして半世紀ほど経った頃、戸籍も山形に移した事もあり、私自身は山形の出身と名乗ってきたが、体のどこかには九州人としての血を感じていた。具体的に表現することは出来ないが、頑固なところを押し隠しながら世を渡っていたとの想いはある。何度か父の故郷に足を運び、市内の武雄温泉や隣接する嬉野温泉などにもお世話になった事も有った。そして、父も子供の頃は遊んだであろう武雄市内を流れる六角川の流れに手を注ぎ、何となく親子の縁を確かめた事も思い出として残っている。

 この他にも佐賀県嬉野温泉の老舗大正屋で、全工協会の秋季研究協議会が開かれたことがあったが、協議会の終了後、九州の先生方に伊万里や柿右衛門工房などを案内して頂いたことも懐かしく思い出された。その折、大正屋の廊下で俳優の片岡鶴太郎とすれ違う事があったが、私と目を合わせたとき彼が目礼をして去って行った事までも思い出させてくれた。この様な想いに導いてくれたのも会報の投稿であり、心から感謝申し上げたい。この様な投稿を通じて更なる親交が深められれば良いと思っている。【文責:毛利】

  

会員投稿

 「日本産業教育の父」佐藤孝次先生を偲んで                  池永武喜

  東京都立工業高等学校に於いて、37歳で校長となり、戦前、戦中、戦後を通じて30年間同一校に校長として在職した奇跡的な校長先生です。現在の間隔では信じられない経歴の方ですが、幸いその学校に勤務したものとして、後輩の皆様方に是非「日本の産業教育の父」としての経歴を申し上げたいと思います。

  先生の存在は、日本復興のあけぼのでした。

  昭和10年板橋区富士見町(現在地)に北豊島商工學校の新校舎が創建されました。鉄筋コンクリートの白亜の校舎で、当時としては珍しいスチーム暖房、水洗トイレの白亜の殿堂と云われ、屋上からは、地名のとおり白亜の富士山を望むことができて、生徒の誇りでした。校歌にも「白亜の殿堂」とうたわれ、佐藤校長先生の自作でした。

  機械科においては最初からベルト掛旋盤の生徒実習を目指して機械設備を充実し、それに対応できる教員を採用して残し生徒の指導に当たれました。

  勿論有給でしたから製作した旋盤は軍需産業等に納めて研究生の経費に充てていたようです。

  昭和12年には日支事変が始まり、戦時体制で、鉄、銅等の資源が欠乏し、配給制となりました。

  私は昭和14年頃H社に勤務していましたが、売るよりも原材料の確保が先決でAランクの軍需産業や金山関係を優先されました。従って佐藤校長は材料確保に一方ならぬ苦労を重ねられたことと思います。終戦でまで200台を製造し、戦後は20台が生徒実習用に使われ、1年生の旋盤実習で、ベルトの掛け換えに苦労したことは、忘れられない思い出です。戦後30年間 生徒指導に貢献しました。

 当時日本の工作機械工業は非常に立ち遅れていた為それを挽回するための教育方針ではなかったかと思います。戦火が激化し、東京は焼け野原となりました。多くの都立校も消失し戦後も長く授業困難となりました。北豊島工は鉄筋コンクリートの為消失は免れ、機械設備も万全でした。消失した板橋区役所が講堂に間借りしていたこともありました。佐藤校長こそは都有財産を保全した事だけでも特賞に価するとおもいます。

 戦後はマッカーサーの命令で工業教育の再興は禁じられ、六、三,三制が強要され、義務教育の延長、新校舎の建設で文部省の予算は全てそちらに廻されました。工業教育の要は多くの実習設備ですが、戦後の物資不足で復興は遅々として進まず放置状態でした。北豊島工はその中にあって平常授業が行われ、実習も完全でした。校長の方針で時代に即応した生産実習を再現しました。

 佐藤校長は全国の工業高校のみならず、その他の産業教育の校長会の会長となり、産業教育の復興の第一線に立ちました。学校は水曜日の職員会議に出席して教育方針を指示し、あとは教頭に任せて全国を飛び廻っていました。政治的には当時の自民党の若手議員と協議して「産業教育振興法」の成立を目指して活躍しました。マッカーサーは命令に服さぬ者は沖縄で強制労働に服させると豪語していた時代ですから命をかけての活躍でした。しかも佐藤先生の奥様は重病の床にありながら全国を立ち廻り趣旨を説明して支持を受けました。

 昭和26年6月国会に於いて議員立法の第1号として「産業教育振興法」が成立しました。これにより中、高、大学の産業教育の充実に国家予算から大幅に補助されることになり、各校は漸く復興の見通しが立つことになりました。産業教育振興法は議会で討議され、議員立法第1号として成立したため民主主義の手前マッカーサーも手を出せなかったのだと思います。産業教育振興法、第1条・目的には「この法律は、産業教育が我が国の産業経済の発展及び国民生活の向上の基礎であることにかんがみ、教育基本法精神にのっとり、産業教育を通じて、勤労に対する正しい信念を確立し、産業技術を習得させるとともに工夫創造の能力を養い、もって経済自立に貢献する有為な国民を育成するため、産業教育の振興を図ることを目的とする。」とあります。結果的には高校のみならず、大学の設備も充実し団塊の世代の教育に素晴らしい成果を及ぼし、日本の経済復興の原動力となりました。佐藤校長は「産業教育の父」と云われています。

 佐藤校長は昭和30年に退職後、新宿にあった工学院大学付属高校の校長になり、昭和3711月7日午後4時頃校長室に於いて突然死を遂げられました。まさに工業教育に殉死されたことになります。佐藤校長の開発したベルト掛け旋盤は構造簡単、取扱い容易で安全性が高いので低学年の実習に最適でした。

 昭和35年正月に機械科の新年会で「本校の伝統の旋盤政策を復活しては・・」と提案した処、皆の賛成を得て、早速かつての研究生で教員になっていた先生方で設計にとりかかりました。東京都教育委員会に設計書を提出した処、許可も下り研究組織を結成して具体的活動を始めました。モーター直結の最新式旋盤で生徒の制作が容易なこと、現有設備で製作可能なこと、安全作業第一に留意して研究を開始しました。特に全ての機械設備は戦時中の酷使で相当制度が低下していたので本格的修理を行いましたが産振予算のおかげで全て新品同様に修理いたしました。

 昭和38年度から正式に授業として編成いたしました。

       学級数    40名×3学級=120

      学習単位数  4単位(140時間×120名)=16,880時間

      実習日程   木曜・金曜 7時間授業

     (連続実習) (朝830分~午后4時)

 

      1

 

2

 

      3

 

     91日  ←  7週  →  1031日  ←  7週  →   1225日    ←  7週  →   310

      学校行事と等と重なり7週の確保は困難

      完成目標  昭和39310日卒業式

      卒業生、父母列席・除幕式

  一号機は初体験のため卒業試験終了後希望の生徒の協力を得て実習を行い、卒業式の前夜見事完成。

  3月の夜は毎晩寒かった事。その中で生徒はよく頑張った事。 職員も終電で帰り、翌朝定刻で全員出勤一人の事故者もなくラッキ―でした。

     除幕式

     昭和39310日卒業式終了後

      機械科卒業生と父母出席の下除幕式を行う

     命名  オリンピア号旋盤1号機

      学校長 スイッチON  卒業生代表 見留君 試運転

 旋盤の快音とともにバイトの刃先から白銀の切粉が流れるように削り出された瞬間、万雷の拍手とともに涙があふれでました。地元は中小企業の父母が多く感激はひとしおでした。後日旋盤の制度を測定した処、JES規格をほとんどクリアーして市販の旋盤に劣らない事が判りました。この奇跡はベルト掛け旋盤を作った時代の時術が生きていた事で、佐藤校長の偉大さが判りました。

 日本は時あたかも東京オリンピックの活躍で世界一のブームの時代でした。東京オリンピックのハイライト、女子バレーを観戦して優勝した瞬間、俺たちも世界一の工業教育を成し遂げたと自信を深めることができました。

 この成果を次のような研究会を実施し、生徒実習を見学して研究報告を行いました。

     昭和40年   東京都機械工業教育研究会

     昭和41年   関東地区機械工業教育研究会

     昭和42年   文部教研全国大会 各県代表5名出席

 結論

  オリンピア号旋盤は毎年1台ずつ10年間製作しました。

  オリンピア号旋盤1号機1964年3月10日完成)10号機1973年3月10日完成)

  ゆとり教育で7時間の授業が廃止され実習は中止となりました。奇跡は信じられない形で表れました。

  平成221028日~112日 第2回東京国際工作機械見本市(JIMTOF)が開催され「工業高校による手づくり旋盤オリンピア号」の展示を要請されました。まさに世界トップメーカーに伍しての出品です。

 製作から40年以上を経過して、人間なら定年退職を迎えています。幸い1号機から生徒指導に当たった若手の窪田和人先生(北豊島工卒)が健在で、一人でオバーホールを行い出品することができました。期間中の解説にも当たり世界各国からの専門家が見学に来られ、専門技術のことで話題は尽きなかったそうです。

 正に前代未聞、空前絶後の快挙に世界一の工業教育と実証されたと信じています。

 平成6113日に佐藤先生の33回忌の法要が同窓会(白亜会)主催で行われました。元文部大臣からの丁重な追悼文を戴き、戦争中の卒業生も多数参加して思い出話がつきませんでした。

 ここに先生の偉大な業績をたたえてご冥福をお祈り申し上げます。

 

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