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  授 章   授章おめでとうございます。

      瑞宝小綬章 (平成29年秋)平林 隆郎 様(H2年 烏山工

 

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                ネパール教育支援を終えて                毛利 昭

 

平成41992)年から実施してきた「ネパール教育視察団」も、今回で25回目の節目を迎えている。この間、校長会並びにOBの方々からも参加いただくと共に、心温かい支援を受けてこの事業は継続してきた。当初目指した目標以上の成果が得られたものと確信している。しかし、会員の高齢化や新規参加者の減少が目立つようになり、組織的な支援は困難になってきた。止むを得ない対応であるが、今回で本事業を閉じることとした。都の校長会には関係者も多かったことを踏まえ、その報告を数回に分けて報告する。

 【ガネッシュ小学校】

 ガネッシュ小学校に通じる坂道には、早春の野辺に咲く花々を集め、それを紡いだ花輪を手にした子供たちが列をなして待っている。その中を行く我々の首には、次々と手作りの花輪が掛けられ、その花々からは爽やかな香りが漂ってくる。花一輪一輪に子供たちの願いと感謝が込められており、花一輪一輪に子供たちの照れたような笑顔が宿っている。碧空を背にしたランタン・リルン(7246m)、ガウリ・シャンカール(7145m)などヒマラヤの高峰が白い雪を頂いて我々を見守っている。

 カトマンズ郊外ドリケルリゾートにほど近いこの地に、小学校建設を始めたのが平成61994)年であった。以来およそ23年に及ぶ支援が続き中学校が建設され、最後に高等学校建設が行われた。これまでの校舎は現地でも一般的なレンガ造りとしてきたが、高等学校だけは鉄筋コンクリート造り4階建ての堅牢な構造物とした。特に理由があったわけではないが、この地を周辺の文教地区へ育てたいとの望みはあった。その校舎が完成した直後に発生したのがネパール大震災である。2015425日にネパールの首都カトマンズの北西を震源とするマグニチュード7.8の地震が発生し、9000人もの死者を出したと伝えられている。世界遺産に指定されたカトマンズやバクタブルの市街地では、古くからの建物や寺院が倒半壊し、日干し煉瓦造りの住居などは砂場の建物がクシャっと潰れるように崩れ落ちている。著名な寺院や観光場所は復旧が早かったが、裏路地にひっそりと建つ寺院や集会所などは、未だ「突っ支い棒」で支えて建物を保持し、余震等による倒壊を防いでいるのが現状である。国の貧しさ、建設材料の不足が復興を妨げている。

 ガネッシュ小学校とて例外ではなく、最初に建設した小学校校舎は一部二階建てであったが、その二階部分に大きな亀裂が入り職員室としての機能を維持するのが難しくなっていた。加えて、余震による建物の倒壊の恐れに対処するため、レンガ造り校舎の使用は中断し、グランド側に竹材を用いた仮校舎を建て、そこでの授業に切り替えざるを得ない状況になった。高等学校校舎は一部に小規模なクラックは入ったが、本体に損傷を与える程の被害はなかった。暫くは、倒壊した村人の避難所としての役目を果たしたが、落ち着きを取り戻した今ですら、教室の一部には被災者が住み着き、学校としての機能が完全に生かされているとは言えない状況にある。

 今を遡ること26年前、私が私的に所属している「日本工業教育経営研究会」並びに「日本技術教育学会」が,「日本の工業高校の生徒と海外の工業高校生との交流を図ろう」とのコンセプトのもと、交流に適した国を探し始めた。相手国がネパールに落ち着いたのは、手作業による「ものづくり」が今も行われている国との判断があったからである。早速、研究会の中に「海外交流特別委員会」なる組織を立ち上、げネパールの教育事情の視察を開始した。

 しかし、当時のネパールには工業高校に類した学校は皆無であり、大学の施設・設備すら充分に整っていないというのが現状であった。加えて、子供たちの識字率は40%を切るような状況で、学校に通学する子供たちは極めて少なかった。例え、学校に行けたとしても教科書の無償配布が終わる3年生になると、学校をやめて行く子供たちが多かった。子供といえども貴重な労働力として捉えられる習慣が蔓延していたからである。この様な現状を目の当たりにし、「交流よりも子供たちの教育が先だ」と考え方を改め、小学校の建設並びに教育ソフトの提供を始めたのが発端であった。

 この間1996年頃から、ネパール共産党毛沢東主義者(マオイスト)によるゲリラ活動が各地で勃発するようになると、視察の参加者も激減するようになった。2001年に起きたビレンドラ国王暗殺事件により国内に非常事態宣言が発せられた時は、辛うじて現地視察に訪れたのは2名と何とか命脈を留めた。以来、ネパールでは混沌とした政情が続いたが2008年に王制が廃止され、同年に「ネパール連邦民主共和国」が発足し現在に至っている。その後も参加者は10名前後と少ない人数ではあったが、高等学校建設に向けた動きを続けてきた。高校校舎の落成は平成262014)年であるが、この時は村人総出の式典となった。しかし、子供たちにとって楽しい式典で有ったかどうかは甚だ疑問である。地域の有力者が次々と壇上に立ち何かを演説をしているが、子供たちは顔を顰めたままであった。本来主役であるべき子供たちより、大人の都合を優先させる辺りは万国共通の悩みである。

 何はともあれ、地域での教育力は高まったとの実感はある。それは、通ってくる生徒数の増加と、学校建設に寄せる地域の人々の期待の声である。「自分は学校に行けなかったが子供たちだけは学校に通わせたい」との思いは伝わってきた。しかし、教育環境は十分とは言えず、震災時の瓦礫がそのままグランドの片隅に放置したままであったり、折角の教室を農作物の倉庫代わりに使用するなど、意識の低い点が散見される。瓦礫の放置を糾弾し「危険だ」との指摘に対し、「ハッ」と気が付く顔をした先生方に未来を託したい。

 【クンブスワ技術学校】

 カトマンズで一番の繁華街と言えば「タメル」と呼ばれる地域である。旧王宮に程近いこの地は、世界の観光客が訪れる繁華街として知られ、飲食店はもとより日用雑貨から宝飾品の店などが軒を連ねる商店街である。その片隅には必ずと言って良いほどストリートチルドレンが屯していた。理由はさまざまであるが、帰るべき家を持たない点では一致している。その様な子供を収容し、寄宿舎に住まわせながら木工や編み物などの技術指導を行っているのが「クンブスワ技術学校」である。この学校に対しても当初より支援を続けてきた。寄宿舎には常時16から18名程度の子供たちが暮らしているが、ここに救われた子供たちは幸いである。救われる数の数十倍の子供たちが放浪の生活を余儀なくされている現実があるからである。中にはここを卒業して指導員として戻ってくる卒業生も居り、先生方を喜ばせている。

 今回の旅でもタメル地区で彼らの姿を捜したが見つからなかった。恐らく、地域の人々に追いやられたのであろう。しかし、彼らは逞しく生きていた。シバ神を祭るヒンズー教最大の寺院パシュパティナートはバグマッティー川に面して建っている。此処では、川沿いにガートと呼ばれる台座が並び、死者はこの台座の上で荼毘に付され、遺骨は川に流される。この川は聖なる川として知られるガンジス川に繋がっており、ヒンズー教徒にとっては特別な場となっている。観光客は荼毘の様子を目撃することになるが、異臭に顔をそむける人もいる。その様な中、一人の少女が河原を彷徨っていた。年のころは5歳か6歳程度だが足は真っ黒に汚れ裸足である。食べ物でも捜しているのであろうか落ちているビニール袋を漁っている。その少し先では少年が薄汚れた河水に身を沈め川底を漁っていた。遺骨とともに川に捨てられる金属片を捜しているのであろう。悲しい話だが、これらの子供たちはいずれ大人の甘言に惑わされ、少女などは地方の売春宿に沈む運命を辿るものと考えられる。インドからのトラック野郎が行き来する街道沿いのバザールが近づくと「STOP AIDS」のステッカーが目に付くようになる。この様な地にもAIDSが蔓延している様子が伺える。無知のための業なのか貧しさゆえの現象なのかは定かではないが、早急的な対策を講じる必要がある。しかし、国はインフラの整備で手いっぱいで、そこまでの余力は無い模様である。

 そのインフラ整備とて自然環境などは歯牙にもかけない乱暴なものである。道路などはダイナマイトこそ使わないが大型の重機で崖を掘削し、発生した土砂は躊躇なく川底へ捨て去る工事が殆どである。中国の「一帯一路」計画に賛意を示し、投入される資金を利用して道路整備を行いたい模様だが、川底に捨てられた土砂による二次災害は必至である。むしろ影響は下流域のインドやバングラディッシュの方が被害が大きいと考えられる。現地では中国人技術者が指揮を執っていたが、転覆した列車すら土中に埋めてしまう気質を持つ彼らに、高邁な環境論を唱えても無駄なのであろう。何ともやるせない記述であるが、これは紛れもない現実なのである。(続く)

 

会員投稿  本投稿は長文のため数回にわたり掲載させていただきます。

      誰も置き去りにしない社会づくり ~立ちすくむ社会に新しい風を吹き込めるか~ 平成29101 國廣 宗猷

 

プロローグ

 私は、平成元年に管理職試験をうけ、平成2年に教頭要員となり、平成3年に東京都立府中工業高校の教頭として赴任した。その後、東京都立田無工業高校の校長となり、退職後は、東京都教職センターで管理職並びに管理職候補者の研修に当たり、その後、上智大学で講師を勤め、平成の時代をがむしゃらに過ごしてきた。

 その平成時代ももう終わりである。平成時代は、昭和の時代を引きずったまま、あわよくば昭和のよき時代に帰りたいという思いの中で、何もかもが中途半端に終わろうとしている。

  安倍政権は、「地方創生」「1億総活躍」「働き方改革」と毎年のように新たな名前で看板政策を打ち出してきたが、いずれも道半ば。今回はさらに壮大で、「人づくり革命」を打ち出した。論点は、教育無償化などの拡充、高等教育改革、企業の人材採用の見直し、全世代型社会保障への改革の四つである。「人生100年時代」という旗印を挙げて、教育や社会保障の制度を抜本的に見直す壮大な構想であり、どれも大切だが、実現が難しいテーマばかりである。

 安倍首相は、民心の声を聴くために、改革の柱を示したまま国会の解散を宣言した。解散劇により、国会の権力争いに向けて世の中が騒がしい。次の世がどのようになっていくのかよくわからない状況である。民心の声に耳を傾け現状を正しく理解すれば新しいグランドデザインが見えてくるであろう。大いに期待している。

 作家の堺屋太一82)は、20年前、朝日新聞に「平成三十年~「何もしなかった日本~」という小説を連載した。東京一極集中が続いて地方は衰退、国の借金は増え続ける。そんな平成30年の日本を描いていた。「現実は、その予想よりもさらに『何もしなかった』のが日本でしょう」と振り返えっている。

 中国の歴史の中に「『明の末期』」の記録がある。「君主も宰相もその人を得ず、宮中の奥に仕えている官官も女中もばっこして政治に口をはさみ、賄賂が公然と行われ、兵馬は衰弱し、国庫は空になり、政治といえばただ金銭をやりくりするだけであった。」とある。今の国会議員は、どれだけ「詩」や「礼」を学んできたのだろうか。詩とは、志を表現したものである。詩を学んでない人はまともな話はできない。志のないところに政治はない。また、説明責任など「礼」を逸することがあれば、社会の中ではやっていけなくなる。森友・加計学園問題等などに奥女中などがかかわっていなかったのかどうか疑問が残ったままである。もっと国民に分かりやすく礼を尽くして欲しい。

 現在の日本は、あくまでもグローバル社会において、競争だけに力を入れ、人類の共生という方向には目を向けようとしない。国庫は、大赤字のまま、これからさらに子どもの数が減り続ける少子高齢化の中で、これまでのつけをどのように若者にバトンタッチしようとしているのか。どうも今は、『明の末期』に当てはまることばかりのような気がしてならない。政策全ては人間の生活を守るためにある。政策がだめだと人の命にかかわる。武田信玄の歌に「人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵」というのがある。誰でも知っている歌詞だが、これからも政治を行う上での道標となろう。

 現在は、景気回復、少子高齢化、安全保障問題などの政策論争で新しく政党が立ちあがった。それは、小池百合子都知事の率いる「希望の党」である。他の野党を吸収し、昔の55年体制を再現するかの勢いである。現在の日本は、少子高齢化への対応が最も大きな課題であることは分かっていたのに、平成の時代は何もできずに、変化に追いつついていけなかった。分かっていたのに手を打たなかったのは、上の世代の責任である。今、国民から、大きな変革の声があがっている。平成29年の総選挙で、どの党が躍進し、変革を目指していくのか。モデルなき時代をどう切り開いていくか。これまで工業教育の一端を担った者として、立ちすくむ国家に活を入れたい。茹でガエルにならないように。

 1 豊かな社会を求めて

 豊かさとは 

 以前、朝日新聞に、「真の豊かさとは何か」について、劇作家の倉本聴さんと、山田養蜂場の山田実生さんの対談が掲載されていた。

 今の日本人は、一流ブランド品を手にし、世界のグルメを楽しむなど、私たちの先祖が夢にも思わなかった豊かさを享受している。それが本当の豊かさなのだろうかと。「豊か」を辞書で引くと「裕福(リッチ)で幸せであること」と書いてある。

 私たちは、リッチだけを求め、幸せの部分を忘れてきたように思えてならない。お金さえあればひとりでも生きていけると思っている人達が多い。そこには利他の心や慈悲の心のない、自己中心的な人達ばかりがいる。現在の日本は、ものに対する多消費が目立ち、本当の「豊かさ」をあまり実感できていない。豊かさを感じるためには有意義に働き、有意義に暮らすという生き方が必要であり、経済はそのための手段でしかないはずである。経済成長を追いかけた日本勢は、もはや世界の人達の眼中にないかのように衰退してきている。

 ヒマラヤの起伏の激しい九州程度の広さの山地に、70万人程度の人が住む農業国・ブータン王国がある。ブータンは、「あなたは幸せですか?」という問いに、97%の回答者が「はい」と答えた国である。それから「幸せの国」と呼ばれ、一躍有名になった。(ちなみに、日本は、国民総幸福量で平成29年は51位である。)ブータンは、経済成長自体が国家の目標ではなく、目標はただひとつ、国民の幸せを求めた国である。経済成長は幸せを求めるために必要な数多い手段のうちのひとつであるかもしれないが、富の増加が幸福に直接つながるとは考えない。生きとし生けるもの全てに対して、思いやりと親愛の情をもって接し、利他の心を忘れない、豊かな心を追求し、慈愛に満ちた心の育成は、自然との共存により豊かな実りを生み、「国民総幸福量」という目に見えない価値に向かって経済を循環させたのであろう。

 ブータンのティンレイ首相は、「生活の基本条件の多くが、まだ満たされているわけではなく、政府は、すべての村に道路を整備し、すべての家庭に電気を届け、学齢期の子どもが学校に行けるようにし、各家庭に水道も届けようと努力している。

 しかし、グローバル市場の影響から逃れられずに、人々の消費意欲が膨らみ、自動車や建材などの輸入が急増している。縫い針から電子機器に至るまで、輸入に頼り、国民の多くが農民だというのに、外国から野菜も買っている。私たちが自立を忘れてしまった結果かも知れない。教育や雇用をもっと与えなければならない。」と課題を指摘している。ブータン王国はゆっくりとした近代化を歩んでいる。先進国がなくした人間の「心」をブータン王国の人々は培っているのである。ブータンの国王は、「近代化がもし、心の豊かさを侵す時がきたらブータン王国は滅びていく。」とも言っている。

 日本は、高い技術があり、アジアの市場は沢山あったにもかかわらずそれを生かせなかった。現在、日本の経済規模は20数年前とほぼ同水準にとどまっている。物価上昇率はゼロに等しく、名目国内総生産(GDP)も減少の道をたどっている。

 安倍政権は、強いリーダーシップをとり、アベノミクスと呼ばれる経済政策を打ち立て、「日本をとりかえす」をスローガンに、「金融緩和」「財政出動」「成長戦略」の「3本の矢」を放ち、円高とデフレの解消を目指し、安定成長に向け、総動員をかけている。株の値段は上がったが、一般庶民には景気が向上したという感覚はない。

 これまでの日本は、心理学者のマズロー(アメリカの心理学者)が示す人間の欲求のように、物質的な欲求を満たすためのものであった。現在の成熟社会では、心の豊かさを求める欲求に移行してきている。

 人間の幸福のために、企業があり、政府があるはずである。人間の求める欲求を忘れた現代は、明らかにハンドルを切り変えなければならない。ハンドルを切り間違えてしまえば、アクセルを吹かせても、地獄に向かって突き進むだけである。早くハンドルを正しい方向へ切り替えなければならないだろう。経済的豊かさよりも、心の豊かさを求め、他者と競争する「奪い合い」から、他者と共存・共感する「分かち合い」の方向を選ぶべきであろう。北朝鮮の問題などにぐちゃぐちゃかまっている暇はない。

 ● 成熟社会の日本のあり方

 日本経済は、高度経済成長期で青春を味わい、今は、成熟した経済社会に入っている。成熟した経済社会とは豊かさが実現され、生活に必要なものが国民に行き届いた状態である。

このような社会になると、人々の購買意欲は下がってくる。モノをつくっても儲けにならず、薄利多売に陥り、減収になった企業は、急成長中の新興国へと進出する。そのため、国内で働く人々の賃金は安くなり、雇用機会が減少し、失業率は増加し、経済は勢いを失っていく。歴史的に見ても、経済成長が永遠に続くことはない。古代ギリシャやローマ、イギリスの勃興と没落を見ても、国家の繁栄には限界があり、やがて新興勢力に追い越されていく。

 日本は国内総生産(GDP)で中国に追い抜かれたが、日本がかってきた道を辿る中国をライバル視しても、日本の未来へのヒントとはならない。成熟経済に入ってきた日本においては、昔のような経済成長は望めない。これからが新しい経済を生み出す日本であると考えられる。

 第二次世界大戦後の焼け野原、毎日の食料を得るのも儘ならぬ時期から産声を上げた日本の社会・経済は、朝鮮動乱の時代を経験し、1991年のバブル崩壊まで、多少の浮き沈みはあったものの、新幹線・高速道路等の建設などを発達させ、列島改造論などと言われながら、経済成長を続けてきた。世界から注目されるいわゆる経済大国となった。日本人の殆どは、その時の経済発展の味が忘れられないでいる。それ故に、これまでの衆議院選挙で、経済の成長・活性化が必要という声が多い。あの高度成長期の頃の勢いが忘れられないのであろう。

 国を挙げて内需拡大や新しい産業の育成を目指しているが、歴史ある企業すらも経営が苦しくなってきている。一方、工場の多国籍化など、苦しさを増すばかりである。かつての経済成長戦略は、もはや古くなっている。何時迄も同じような経済政策を続け、そこに税金や人的資源を投入することは、逆に国家の勢いを削いでいると思われる。そこにストップをかけられる政治がもとめられる。小池都知事の言うように全てを「クリアー」しなければならないのかもしれない。

 日本には、バブルといわれるまでの経済成長期に蓄えた富があり、これが一番大きい大債権国となっているのである。しかも、一億以上の人口を抱えて、道路や病院、水道、電気だののインフラがこれほど整っている国は世界中で珍しいことである。今の日本の状況を苦難と見るよりも、前途に大きな希望を抱え、自分たちが主人公になって、これからの世界の基準を作っていく立場にならなければならないと自覚したい。

2 近代産業の移り変わり

 昭和の時代は、「激動」「戦争と復興」「高度成長」「バブル経済の狂乱」の時代だった。いまだに、「昭和の標準モデル」を前提にした制度と価値観が続き、変革の妨げになっている。終わった昭和に夢よもう一度とすがり付いている日本がある。平成は、昭和とは環境が変わっているのに、考えや仕組みを変えられない。少子高齢化、格差と貧困(子供7人に1人が貧困)、非正規雇用3人に1人)、シルバー民主主義などの現実を背景に、多くの課題が噴出している。その負債はこれから若者に回される。未来を育む土壌をどうやって次世代にバトンを渡すのだろう。

● モノづくり企業は惨憺たるもの

「パナソニック 二年連続で巨額赤字」、という見出しがあって数年がたつ。戦後の復興期から高度経済成長期にかけて、テレビ、冷蔵庫、洗濯機といった「三種の神器」で成長を続けたパナソニックであるが、円高も手伝い、2008年には、韓国勢のサムスンやLG等が安いリチウムイオン電池の量産を始め、韓国勢と日本勢のシェアは逆転した。そしていまだ韓国勢との価格競争に太刀打ちできずにいる。パナソニックだけでなく、NEC、シャープ、東芝(粉飾決算)などあらゆる日本の大企業の業績にブレーキがかかっている。海外勢との技術差がなくなり、価格競争が激化する中、自国の市場が小さく、グローバル展開を試みてはいるが、円高や厳しい雇用規制などもあって販売競争に勝てなくなっている。国がつぶれてもこの会社はつぶれないと思われていた大企業が惨憺たる状況である。国民は不安を隠し切れない。

 問題は競争力の低下だが、日本企業は経営者も社員も危機感が薄れていたのではないかといわれている。仕事の意欲と効率を共に高める新しい働き方を模索しないといずれ競争から振るい落とされてしまう。「現代」を支えるシステムが複雑かつ巨大過ぎて、まだ日本の技術は大丈夫だという安心感が、解決への手立てを遅らせたのが現実であろう。

 日本だけでなく、世界の国々が、リーマンショック以来、「先の見えない時代」へと移行している。こうした社会状況だから、人びとの顔が暗くなるのかもしれない。

少子化については、日本の人口は、2000年~2010年がピークで約13000万人。その後、少子化が進み、2050年ごろには80009000万人まで減少していくと予測されている。人口とGDP(国内総生産)の割合は、大体同じであると言われている。そのため、日本の経済力の低下が懸念される。

 世界における科学技術という競争力は、スイスの調査会社によれば、日本は1990年に世界トップだったが、今はGDPに加え、競争力も2627位にまで落ちている。資源のない我が国は、科学や技術の発展に努め、日本の持つ技術力を生かし、日本特有の製品を作る必要がある。

 アメリカの経済誌『フォーブス』(アジア版)が2011年に発表したアジアで「最も収益性の高い企業」50社のリストによれば、中国企業が23社で圧倒的なトップ。以下、韓国企業8社、インド企業7社、オーストラリア企業3社、インドネシア企業とタイ企業が各3社で続いている。日本は、これにランクインしている企業は1社もない。

 いまや日本だけにしかない素晴らしい技術があるとすれば、それは「町工場」の職人技とでも言うべきものかもしれない。

● リーマン・ショックとは

 20089月の米証券リーマン・ブラザーズ破綻後、たった3カ月で世界の風景が一変した。世界経済は、急激に冷え込んだ。アメリカでは、リーマン・ショック直後にオバマ大統領が誕生した。オバマ大統領は就任直後から、大型の景気対策を打ち出すなど、経済・雇用対策を最優先課題として取り組んだが、米国の財政状況は急速に悪化し、失業率も89%の高い状態となった。現在、トランプ大統領も、米国の回復に努めている。1989年以前は、米ソの対立が続いていたが、1989年、ポーランドで自由選挙が実施されるや民主化の波は瞬く間に東欧全域に拡大した。そして、1989年に東西ドイツを隔てていた「ベルリンの壁」が突如崩壊し、翌12月にはジョージ・ブッシュ(ブッシュ米前大統領の父)、ミハイル・ゴルバチョフの米ソ首脳が冷戦終結を宣言した。わずか半年で戦後世界の基本構造だった自由資本主義と社会共産主義の対立軸が消えたのである。世界の大きな壁が破壊されたのである。

 それからは、米国中心の資本主義が急速に進み、グローバリゼーションが進展していった。ヒト・モノ・カネの移動が盛んになり、国境の垣根はなくなった。先進国だけでなく新興国や途上国も成長と雇用拡大が進んでいった。

 金融では、ウォール・ストリートの欧米巨大金融機関が、世界金融を実態支配する構図ができあがり、カネの力を背景に、サブプライムロ-ンというグローバルなマネーゲームに興じた。サブプライムロ-ンとは、信用力の低い個人向け住宅融資の高金利ローンで、低所得者に返済不可能を見越して家を購入させ、返済ができなくなったらその家を売却させ、新しい家を買わせるという、家が値上がりするという前提のもとに貧乏人から金の成る木に変えるというゲームである。ゲームが破綻したとたん、銀行からの金の流通が止まり、世界はカネ詰まりとなり、日本を含め各国経済が急激に冷え込んだのである。

● モノづくりの中心は他国に移動

 産業革命を世界で先駆けた繊維や鉄道産業を興したイギリスの繊維業者は見る影もない。かって、トヨタは、「作り過ぎのムダ、手持ちのムダ、運搬のムダ、加工のムダ、在庫のムダ、動作のムダ、不良をつくるムダの「7つのムダ」を排除し、極力在庫を持たず、必要なものを、必要な量だけ、必要な時にジャストインタイムで生産するなどの特徴を持っていた。使用した部品の補充を知らせる「帳票」をカンバンということから、かんばん方式とも呼ばれた。これらのジャパン・アズ・ナンバーワンと称された日本の製造業は、アメリカに果敢に挑戦を挑み勝利を勝ち取った。大量生産方式を武器に、第二次産業革命の覇者として高性能な車を安価に世界中にばらまき、アメリカのゼネラルモーターズ社を、2009年に破綻に追い込んだ。

 しかし、それらの日本企業が“かつての姿″に戻ることはない。日本の電機メーカーはもう中国、韓国勢に勝てない。現在、世界経済のエンジンは日本でなくアジアだといわれている。無情にも、モノづくりの中心は他国に移動し、日本のお株をすっかり奪われてしまっている。  (次回に続く)

 *本文章は平成2910月に記したものですので、時期的に遅れている部分もありますがご容赦ください。

 

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             働き方改革ってなに・・・?                高 間 伸 一

 

 平昌オリンピックが開幕した210日の朝、NHKテレビのニュース深読みで本業・副業二刀流!働き方はどう変わる?といったテーマで討論する番組を放送していた。副業も(サブ)なのかなのかといった問題や残業ゼロといった問題などを議論していた。 

副業問題も残業問題もどうせ公務員(公務員は法律で禁じている)には関係ない。まして退職した私には無縁な話であると斜に構えて観ていた。

しかし、工業生産を屋台骨としているわが国の、工業教育に携わったOBとして、他人の絵空事として聞き流しておいてよいのか次第に不安になってきた。

会話の中で副業を持つことは本人のスキルアップや発想の転換になり良いことであると云った考えが主であった。私の現役時代は、日本は工業立国、技術立国であると多くの日本人は自負していたし、技能では誰にも負けないと励んでいる技能労働者が多くいたと思える。

しかし、現在は、技能オリンピックにおいても優秀な成績を収める若者は中国や韓国などにシフトしている現状がある。将来を考えると決して工業立国、技術立国として安閑としてはいられない気がする。 

 工業教育に当たったものの一人として、ドイツのマイスター制度、フランスのバカロレア、イギリスの職業資格(NVG)など職業資格制度やそれに対する社会的地位などに関心を持っていた。我が国でもそのような資格制度があればよいと思っていた。

職業に就き、その職業を極めてゆくことで職業資格が得られ、社会からも認められ、安定した生活ができる社会を造ることが大切であり、そのことが、将来の技術の改革にも繋がってゆくと信じていた。

労働時間の短縮、労働効率の向上、個人のスキルアップといった言葉に惑わされず、働き方改革とは何であるかを、一人一人が考えるべき問題である。 

 働き方改革とはAIIT技術が導入される社会においても、仕事に対する自信と誇りを持て働くことができ、安定した生活ができるように働き方を改革することこそ働き方改革であると思う。