【会員情報】 

訃 報  謹んでお悔やみ申し上げます。

R174 下井 康司 (S61 府中工退)

 

       

 

【活動報告】  

 

OB会親睦旅行

 

       日 時:令和元年1111日(月)、12日(火)

 

       場 所:芦野温泉 栃木県那須郡那須町芦野1461 

 

       参加数:8

              薬草の湯・水素温泉の芦野温泉を満喫しました

 11()、集合場所の那須塩原駅西口送迎バス乗り場付近に1335分頃に新幹線、在来線利用の7人が集まり送迎バスを待ちました。

 

送迎バスは14時過ぎに来て、運転手が乗る予定のグループと人数をメモした名簿で確認して、予定された人数が乗ったところで定刻の1415分に駅前を出発しました。駅から芦野温泉まで35分ほどバスに揺られ芦野温泉に着きました。

 

芦野温泉の玄関先では、車で先に着いていた橋本さんが出迎えてくれました。橋本さんはこの温泉を何回も利用していて、旅館の内部や温泉のことをよく知っているので助かりました。

 

 この温泉は、薬草の湯、水素風呂、アルカリ単純温泉、薬草霧吹きサウナ、露天風呂があり、顕著な効能があるとのことでした。ホテル廊下の壁にはどこにも一面にこの温泉を利用したグループや家族の写真が無数に貼ってあり、湯治によく利用されているということがわ かります。温泉旅館には珍しくシングル館があります。

 

      芦野温泉の入口付近

 

和洋のゆったりとした部屋に入り一息した後、夕食までに時間があるので、まずは特色あるという温泉に入ることにしました。

 

  薬草の湯は、何種類もの薬草が入れてあり、透明度はなく、特に刺激的でした(これは入浴した者にしかわからない刺激です)。                        

 

廊下壁一面の宿泊者の写真

 

 様々な浴槽を巡り、温泉を満喫しました。 

 

 夕食・宴会は6時から、カラオケ宴会場を貸し切りで、近況や健康談義・教育談義で盛り上がりました。

 

フロント前のエントランスにて「湯治仲間の夕べ」というのがあり、この日は、715分からサックスの演奏があるという橋本さんの情報で、カラオケを中断して、聴きに行くことにしました。

 

 演奏も終わり、各部屋に戻りましたが、結局、毛利さん・豊田さんの部屋に集まり、様々な話題をつまみにして飲むことになりました。各人の体力に合わせて自分の部屋に戻り1日目が終わりました。                   建物入り口横の写真スポットで記念写真

 

2日目は朝風呂・朝食の後、玄関前で写真撮影をし、4人は9時15分の送迎バスで帰り、4人が橋本さんの車で、那須岳ロープウェーに向かいました。後日聞いたのですが、那須岳ロープウェーは強風で運休になってしまい、残念ながら那須岳には登ることができなかったそうです。仕方なく4人は、那須塩原駅に戻り、駅前の居酒屋で残念会を開いてから帰京したとのことです。

 

 芦野温泉は、橋本さんの紹介で実現しましたが、その結果は「聞きしに勝る良い温泉だった。また行きたい」(毛利さん)という声に代表されると思います。                

 

 

 

 

 

【会員投稿】

 

人間の真の成熟「愛することと働くこと」

 

國廣 宗猷

 

プロローグ

 

「親死んだら僕、どうなる…」、これは2019年6月16日 の朝日新聞の一面トップ記事のタイトルの一部である。この記事を皮切りに、社会で居場所を失った、さまざまな「ひきこもり」の状況の記事が続くのであろう。このタイトルを見たとき、「愛と労働」という言葉が頭をよぎった。「愛と労働」これは一人前の人間を意味する言葉である。今の時代、働くことをしない、自己中心的な人間がいかに多いかが気になった。

 

令和元年5月28日朝、川崎市多摩区でスクールバスを待つ私立カリタス小学校の児童ら20人が男に包丁で殺傷された事件が報じられた。何ヶ月かが経過したが、今も現場を訪れ献花する人は絶えないという。カリタス学園の卒業生らは「何の罪もない子供たちがどうして」とやりきれない思いを口にしている。 容疑者は51歳。同居の親族は80代。ひきこもり状況にあると市に相談にいったというが、容疑者はその場で死亡しているため、職にも就かず、何十年も引きこもっていた原因や犯罪に至った理由はわからない。

 

 引きこもりの多くが、「いじめられた。そして、人に心を開けなくなった。」という。また、ある引きこもりは、当初父は、「働け」「出て行け」と言っていたが今はもう何も言わなくなったという。

 

社会で居場所を失った「ひきこもり」は、全国に100万人以上いるという。ひきこもりの人が事件を起こすとは断定はできないが、このままでいいわけはない。一人前の人間としての労働が一切抜け落ちてしまっている。それには、教育を基盤とし、個性に応じ、自己を燃焼できる場が与えられ、「誰も置き去りにしない社会づくり」が望まれる。

 

また、自己を中心とした人達の問題行動は、毎日のようにニュースになっている。気の小さい私などは、あおり運転などに出会えば、心臓が止まってしまうかもしれない。

 

今は、社会への倫理観が薄れ、善悪の判断が出来ない人間たちが多くなった気がする。社会が何か狂ってきている。善悪の判断が出来ない人達の多い社会が善い社会になるわけがない。

 

これまで何十年も道徳という時間は学校にはなかった。大部分の人が、「アイ ラブ ミー」の世界で育ってきている。人生を決める基準は、学校の成績という状況が続いている。成績一つで良いところに就職が決まる。しかし、成績が良いから人格者かと言えばそうではない。人は、成績のいい人について行くのではなく、人格者にこそついて行く。頭はいいが、性格の悪い人が上司だったら最悪である。神戸市立東須磨小学校で、教師による教師いじめが報じられている。校長が、仕事が出来るからといじめの中心となった教師を採ったという。しかし、まさにいじめをした教師は、仕事は出来るが人格に問題があったのであろう。これらの人格の形成の必要性を踏まえて、義務教育に「道徳」が復活したと思うが、心の教育の再建には時間がかかるであろう。「21世紀は心の時代」と言われる。心の問題、仕事に意欲を感じなくなった人が多くなった問題など、これからの日本をどうすればいいのか不安が残る。社会全体、これからどうなるのではなく、これからどうするかに視点を置かなければならない。西郷隆盛の言語録には、「己を愛するは、善からぬこととの第一なり」とある。関西電力では、自己中心の考えから、社会貢献どころか私腹を肥やす不祥事まで発生する時代である。本来、利他の心が全ての人になくてはならない。自己中心でなく、利他の心を持ち、誰もが「愛と労働」に満ちた社会であることが望まれる。

 

 

 

一 働くとは、自分の人生を作ること 

 

 

 

働くというのは、生活の糧であり、報酬を得るための手段である。私は、なるべく働く時間を減らし、自分の趣味などに打ち込みたいと思っていた。それでも、20から30代にかけては、「教育ということ」がどういうことか分からず研究会を渡り歩き、組合活動、教研活動に没頭した時期があった。

 

教育というのは奥が深いため、なかなか前が見えない。神頼みとばかり、鎌倉に出かけ、あるお寺で座禅を組ませてほしいと申し出た。なぜ座禅をしたいのかと聞かれたので、「座禅を組めば教育について何か掴めるかもしれないと思って」と答えた。すると「あなたが座禅を組んでも何も見えません。すぐ帰って自分の仕事をしなさい。」と言われ、追い返されてしまった。このことがずっと気になっていた。

 

今思えば、修行僧の人たちは、朝早くから廊下のぞうきんがけをし、庭掃除をし、食事の支度をし、それが終われば、読経をし、修行に努める。一日中働くことによって自分を磨いている。その一日が充実していれば、明日は何をやればいいかという明かりが見えてくる。受付にいた修行僧は、真剣に働くことが、欲望に打ち勝ち、心を磨き、人間性を作っていくという、自分を高める修養の第一歩であることを私に気づかせたかったのだろうと、今では感謝の気持ちである。働くとは、自分の人生を創ること、人生を切り拓いて行くこと、それはいつも夢を持ってくじけず、その時をおろそかにしないで生きることが大切であるということを教えてくれた気がする。働くことがなければ、人生設計などあり得ない。

 

40代は、がむしゃらに教育に打ち込んだ。日刊でホームルーム通信を出し、生徒の心に響けとばかりに、人としての生き方・あり方に触れてきた。すると保護者の方々から、「先生だけに苦労はかけません。私たちもがんばります。」と返事が返ってきた。一生懸命精魂を込めて働く、それは、座禅を組まなくても、自然となにかが分かってくる。自分がなすべき仕事を、与えられたその日のその一瞬を大切にする。働く場が、自分の修養の場であることを。そして、働くことが、経済的価値を生み出し、人としての価値をも高めてくれることを。

 

そのころの仕事としては、校内の課題に向けての取り組みだけでなく、教育委員会の主催する研究活動にも参加していた。教育研究員や教育開発委員として、視野を広めた時代である。そしてアリからセミに変わっていった時代でもある。20代、30代は、アリのように地べたを這いつくばって歩いてきた。そして、少しばかりの基礎が身についた頃は、少し高い木に登り、世の中を複眼的に見られるセミに変化していった。

 

突っ込んで勉強できたときなど、こうすれば問題を解決できるんだと確信を持ち、明日の来るのが待ち遠しかったことを思い出す。

 

50代は、管理職の道を歩いた。それまでの学習と体験が、心にゆとりを生み、主体的に問題を解決する力が生まれた。その結果、職を全うできたように思う。ただ、学校経営について最も勉強した時代でもある。そして、自利より利他に心配りができるように生まれ変わることができはじめた時代でもある。「言うは易し、行うは難し」ではあるが、セミから、人間に脱皮しようとした時であった。

 

当時、都立高校に学校運営連絡会という組織を作るという話があった。そこで、自校に学校運営連絡会を設置すべく真っ先に飛びついた。その頃、コンプライアンスの三原則「TDR」が重視された時代である(今でもそうだが)。コンプライアンスとは、法令遵守を意味するものであり、社会的責任が問われるということである。そして、経営方針の透明度を高め、情報公開とともに説明責任を果たすということである。

 

その為に、田無工業高校に学ぶと、生徒達にはこのような作品を作る知識や技術が身に付きますよとばかりに、田無駅前のデパートの展示場を借りて、生徒の作品を展示した。また、技術検定など合格者もその場に発表させてもらった。

 

学校運営連絡協議会を通じた開かれた学校づくりには、保護者、地域から大きな反応があった。学校は、一躍活気づき、学校の信頼も高まった。

 

現役退職後の60年代は、教職員研修センターの教授として、その後、大学で工業科教育法の授業を担当する講師として、人材育成に当たった。

 

70代は、晴耕雨読の毎日である。年齢を重ねるごとに、何があっても平然と生きたいと思っている。過労を防ぎ、自分の健康は自分で守る。歌でも歌って、身も心もおしゃれに生きていきたいと思う。自立ほど快いものはない。自分で自分に火をつける。欲さえなければ、一切足りる。自分の財産は経験の量である。心に余裕を持って、山あり谷ありの人生を楽しむ。人生をディズニーランドと思えば良いと気楽に考えている。

 

 

 

二 愛することと働くこと

 

 

 

(一)職業が人生を作る

 

人間の生活はもともと手で支えられている、人という字も人と人が支え合って作られているという。昔は、自動車や飛行機などなく、社会的分業などもなく、農耕にかかわる技術などは、いわゆるハードもソフトも含めて、すべてが共同体としてのネットワークで結ばれていた。何もかも自分たちで作り、自分たちの生活を成り立たせていた。

 

しかし、今は、自分の子どもを自分で教育することもなく、自分の身の回りのものを自分でつくることもしない。世の中のすべてが分業化されて成り立っている。自分が何をしたらいいのか分からない人が沢山いる。

 

七・五・三と言われるように、中卒の七割、高卒の五割、大卒の三割が就職しても3年以内に転職しているという。

 

2017年に米ギャラップ社が世界各国の企業を対象に実施した従業員の仕事への熱意度調査によると、日本は「熱意あふれる社員」の割合が6%しかいないと報じている。米国の32%と比べて大幅に低く、調査した139カ国中132位と最下位クラスだった。また企業内に諸問題を生む「周囲に不満をまき散らしている無気力な社員」の割合は24%、「やる気のない社員」は70%に達している。

 

かつての日本は、「会社人間」と言われ、勤勉な努力家が多かった。仕事は人生そのもの、人生から仕事をとったら何も残らない、会社に行けばワクワク、ドキドキ、喜びに満ちあふれていた人が多くいた。最近の会社人間は、勤務先への帰属意識を徐々に無くしてきた。なぜこれほど「熱意あふれる社員」の割合が低下したのか。不満をまき散らしている無気力な社員や、やる気のない社員がどうして増えたのか。

 

これまでの企業は、企業の弱みを改善することに集中し、効率のアップだけをみていたが、今は、社員の半数は自分に合っていない仕事に就いているという理由でやる気をなくして転職している。人は、得意でないことが強みに変わることはない。強みを伸ばすことで、『熱意あふれる社員』の割合を高めることができる。強みを伸ばし熱意ある社員を増やせば業績向上につながるはずである。

 

1980~2000年ごろに生まれたミレニアム世代は、「自分を伸ばして欲しい」と自分の成長を上司に求めている。働くことへの意欲や気力がない。要は、親から叱られたり、殴られたりした経験をしていない人間が増えた結果、褒めて育てなければならないならない状況になってしまった。人に頼りっぱなしで、ボーッと生きてんじゃねーよと叫びたい。

 

働くには、自分で主体的に取り組むから働く気になるが、この反対に押し付けられてやらされていると働く気にはならない。自分の興味関心がどこにあるかが大きなポイントになるであろう。

 

これから、科学技術の進歩に伴い、デジタル技術の活用や、気候の変動などを考慮した環境に優しいグリーン企業の促進、高齢化に伴う介護や育児などが整備され、住みよい世界が築かれていくものと思われる。また、人工知能(AI)やロボットなどの技術の進歩で新たな雇用が生まれるかもしれない。前代未聞の規模と速度で進む科学技術の進歩は、骨折り仕事を緩和する方向へと変化していくが、雇用喪失になるかもしれない。

 

 我々は、どんなに科学技術が進化しても、それと直接向き合わなければならない。明るい未来に向けて進むには、人への投資しかない。みんなが働くための手引きが常に提供される必要があろう。

 

時代が進むに従って、日本企業は今、厳しい状況にある。大きな変革は困った状況にならないと起きない。上意下達でなく、グループ活動などを含めた働き方改革などを進めるのは今なのだろう。

 

ホンダの本田宗一郎さんは、ある講演会の時に遅刻して演台にあがった。作業着のまま講演台に立ち、「会社の経営など温泉に入って、酒を飲んでいて、いい経営などできるわけがない。すぐに帰って、現場を見なさい。」と言ったという。人材育成には、現場がどのようになっているかを大切にするよう心したい。

 

 

 

(二)人間関係がうまくやれる・・・利他の心「愛」があるか

 

犯罪を起こす人間の多くは、利他の心にかけ、自分のことしか考えず、共感することが欠如している人が多いと言われている。共感というのは、フィリアと呼ばれる共に喜び分かちあう愛というものである。共感するということがなければ愛は生まれない。

 

赤ん坊は、母親の愛を受けて育つ。生まれるとおっぱいをもらうことから始まる。成長してくると与えることを学んでいく。貰うことから与えることへ、自利から利他への変化であるともいえる。母親がいなかったら、共感とか愛とかを学ぶことは出来ない。人になるための基本は、親が教えなければならない。親と子供が友達のような関係では、だめなことはだめだときっぱり教えることは出来ない。

 

学校は、自制と共感を繰り返し教えることによって、利他の心や愛を学ばせている。

 

ソーシャル コミニュケーションがうまくいっていたら、まわりが楽しくなり、どこに行くにも待ち遠しくなる。それはお互いの「思いやり」が基盤であろう。「思いやり」とは利他の心、「愛」のことである。人間は、「愛」と「敬」で一人前になる。上野の山の「西郷隆盛像」に書かれている「敬天愛人」という言葉がそれである。

 

人間は、心で考え、情で行動する。「知行合一」という言葉をいつも頭の隅に入れておかなければならない。

 

神戸の教師による教師のいじめのように、感情を害する人に春はない。頭のいい人は、成功する時もあるが、利他の心のない者は必ずぼろを出す。

 

今、「アホーと戦うな」という本が出ている。そこには、「アホーと戦うようなことはするな、気力を消費するだけ。この世は、不条理なことばかり、勧善懲悪、恨み辛みに時間を費やしている暇などない。人が求めているのは、真理を追求すること。人生一度しかないのだから、真理や夢を追いかけて欲しい。」といったことが書かれている。なるほどその通りなのかもしれない。しかし、どんなに真理や夢を追いかけても、教師による教師のいじめのような犯罪とは、戦わなければならないであろう。

 

戦っている例は沢山ある。作家の城山三郎さんは、「人生は挑まなければ、応えてくれない。うつろに叩けば、うつろにしか応えない。」と言っている。

 

現在、台湾のデモの状況がテレビに映し出されている。「台湾から自由を守る。自由から逃げてはいけない、自由はつかみ取るものだから」と若者の多くがデモに参加しているが、デモの鎮圧もそう遠くではないであろう。

 

中国の習近平国家主席は、「いかなる地域であれ、中国から分離させようとする者は体を打ち砕かれ骨は粉々にされて死ぬだろう」と述べている。そんな恐ろしいことが起こってはならない。

 

デモが鎮圧された後の若者のことが心配である。台湾のデモに参加している若者は、自由と出会いそれを大切にしようとしている。この人たちを潰したくない。

 

人には、「出会い、別れ、ともに尊し」という言葉がある。出会いが人生を豊かにし、別れが人生を深くする。人と人が仲良くする、世界の人々と仲良く手を結ぶ、こんな素晴らしいことはない。台湾の若者たちを受け入れる国が日本を含め、沢山うまれてきて欲しいものである。

 

今、ラグビー熱が高い。2019年9月28日のラグビー世界戦でアイルランドに勝利し、新聞各紙は大金星をあげたと報じた。そして、スコットランドにも勝ち、予選を全勝して世界のベスト エイトに残った。ラグビーには、にわかファンが多く、日本が勝ち進むことなど誰も想像していなかった。しかし、それまでに選手たちの流した汗は裏切らなかった。みんなは一人のために、一人はみんなのためにと練習し続けた選手達は、勝利することを信じていたようである。

 

昔、伏見工業高校に山口良治監督という人がいた。当時、花園で行われた高校ラグビー全国大会で四度の優勝に導いた監督である。今年のラグビー世界戦に出場した田中選手の恩師である。

 

 箸にも棒にもかからない不良生徒達に、ラグビーを通じて真の勇気を植え付けた。教えたことはやってくれるという「信は力なり」という信念に基づいてラグビーを教えたという。生徒の良さを徹底的に分析し、個性に応じた指導をした。そして、生徒の能力を伸ばした。教育が人の良さを引き出すということであれば、最も良い例であろう。山口良治監督は、教育は「人を育てる」という人生の深さ、学ぶことの楽しさ、人生の喜びを教えた。あるシンポジウムで「ガキに人格なんかない。人格がないから親は責任を持って育てなければならない。」といった言葉は、今でも心に残っている。

 

 「オール フォウ ワン 、ワン フォウ オール」とは、ラグビーの世界だけなのであろうか。中国や韓国との間柄を見ていると、お互いに縁遠いことばかりが目につく。みんなは一人のために、一人はみんなのために、この真理をみんなで追求する道を探すしかないであろうにと思うばかりである。

 

かって、松下幸之助さんは、感謝しあう人間関係のために、人と人のネットワークがうまくいくことが大切、お互いの体験を共有し、同じ目的を共有する、そして、同じ習慣を共有することが大切だと説いている。

 

 

 

(三)「修己治人

 

「修己治人」とは、自らを高めようとする心があるかどうか、自分を修めることのできないものが、人を治めることができるかどうかということである。

 

 インドのガンジーは、人の成長には、肉体、知識、心の鍛錬が必要であると説いている。一番難しいのは、心の鍛錬である。心をまっすぐにする薬はなかなか見つかっていない。

 

 人間は、ちょっと油断すると邪心が生まれ、倫理を外れてしまう。関西電力の賄賂の問題などもしかりである。

 

 人間はとにかく、人間として正しいことを貫くことである。嘘をつかない、迷惑をかけない、正直であれ、欲張らない、自分のことばかり考えない。これ等の当たり前のことが人間として最も大切なことだと肝に銘じて努力することである。嘘をつけば、信頼関係はたちどころに消えてしまう。よかれとしたことが他人に大変な迷惑になっていたり、欲張ると、少しのお金にでも溺れてしまう。そんな人間社会を望むなんてことはあり得ない。

 

 では、心の鍛錬はどうするのかである。まず、これはなかなかの人物だなと思う人の書物や言葉などを謙虚に受け止め、正道の道を学び、世のため人のために尽力するよう自分を高めるしかない。その努力を怠らないことが大切である。あるとき、「心に勇あれば悔いることなし」という言葉に出会った。この言葉に出会わなければ、不正を見逃し、言いたいこともいえず黙っていたかもしれない。本は、心の鍛錬にもってこいである。

 

 「心の鍛錬はどのようにしているのですか」と将棋の羽生善治さんに問いかけている記事があった。羽生さんは、勝負の世界で平常心を保つために、勝っても負けても思い残すことはないと思うまで練習をするのだという。もっと頑張って練習しておけば良かったなどと思った時は、相手に負けるのではなく、自分に負けてしまう。勝っても負けても全力を出し切れたと思うとき、心が磨かれる時だと思う、と話している。

 

 人生を成功に導く道は、常に利他の心、愛の心を持ち、持てる能力を発揮し、つねに情熱を傾けていく。世のため人のためになろうという気概がなければ何もできない。この心の持ちようが大切である。私利私欲に溺れると人生はどんどん悪くなっていく。

 

京セラを設立した稲森和夫さんは、人生の結果は、考え方、能力、熱意の三つの積で決まると言っている。いくら能力があっても熱意が乏しければ、いい結果が出るわけはないし、考え方が歪んでいれば、決して幸せなど訪ずれることはない。常に、感謝の気持ちを持ち、明るく、思いやりがあり、優しさを備えた人間として修養に努めておかねばならない。

 

日本には、温暖化を解決しようとする情熱はないのかと歯がゆく思う。熱意をもって求めれば成功に導けるはずだと思うが、温暖化でこれほど自然災害が起こっていても、アメリカや日本は京都議定書から脱退して動こうとしない。温暖化への対策は、日本は他国と比べて10年ぐらい遅れているという。これを解決する科学者が生まれてくれば、ノーベル賞ものだが。情熱を持った科学者が望まれる。

 

 

 

(ア)「教師環境論」による、教師の資質向上とは

 

  教師環境論とは、子供にとって、立派な建物や施設よりも、人間の方が感化力は強烈であり、教育の最大の環境は教師であるということである。学校の教師の中には、心の見える教師と見えない教師がいる。こどもに意欲を感じられないという行動現象こそ、悩みに追いつめられているSOSサインであることに気づかなければならない。「目で聴き、耳で見、心で感じ合う。」ことができなければならない。

 

「生きる力」を育てるには、生きる力を持った教員が必要である。自ら学ぶもののみが教えることができる。教師の研修と修養は欠かせない。     

 

教師に求められる一般的な資質は、教育者としての使命感、人間の成長・発達についての深い理解、生徒に対する教育的愛情、教科に関する専門的知識、広く豊かな教養等である。

 

 管理職は教師の研修意欲を駆り立て、心に火をつける。ビジョンを明確にし、愛情を持って指導する。「うまくいかない時は、愛が足りない」と自覚するしかない。

 

 

 

(イ)知性と感性は、人間性を育てる車の両輪

 

いま、こども達は、受験への不安、分かりにくい授業、複雑な人間関係、ハードな部活動などに不安をかりたてられている。

 

 教育というのは、生徒の発達しようとする気持ちに、何らかの刺激を与え、発達を援助する営みである。将来、立派に働くために、自分の人生を切り拓く術を身につけようとしている。「人生を切り拓く」というのは、働き始める時が人生の出発点である。

 

豊かに生きるには、心の中で生き生きした新鮮な感動や喜びを味わうことしかない。個性は、人や自然との営みの中で感性がそれを育てる。主体的な出会いがなければ個性は育たない。

 

武士道などは、武士の生き方、心構えを示したものであるが、武術の鍛錬を怠けていたら、いざというときに立派に戦うことはできない。すばらしい仕事や業績、社会的な名声、経済力、人のために尽くし、まわりから尊敬される、そんな自分を常に磨がいていなければならない。落ちこぼれるのも自由であるが、それでは豊かに生きる基盤がない。知性と感性を磨き、生きる力を育むことが人間性を育てる車の両輪であり、「修己治人」の第一歩であろう。

 

 学校では、どうしたら生徒たちに満足感を与えられるかが大きな課題である。

 

全員に人間として身につけさせるべき知性は、その内容をわからせることの側面が大切である。個々の生徒の能力や態度をのばし、感性を高めるためには、楽しいと思える側面を大切にしたい。主体的に行動できる人間の育成が情熱を駆り立てる原動力となるからである。知性と感性を高め、生徒の個性を伸ばす学校が、人間の真の成熟を促す。そして、愛と労働というものが、己を磨く基盤となるはずである。

 

 

 

令和元年11月11日