1、会員活動報告

  OB会旅行    実施日:10月23・24日    場所:湯河原(花長園にて)

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      幕末維新期  ―日本の工業王国を築いた―

             肥前・佐賀藩の先進性と技術力

                                    秀 島 照 次

 1、まえがき

  来年(2018年)は、明治(1868)になってからちょうど150年になる。

 260有余年の幕政に幕を下ろし、幕末の激しい動乱が終わり、幾多の命と引き換えに明治維新は迎えられた。

 日本人の歴史における最大の社会変革と云われる明治維新、その大きな変革は、風俗の変化、政治体制の変化はさることながら、長い鎖国が終わって日本が、世界の中に飛び込んでいったこと、士農工商という厳しい身分制度が解除され、四民平等への大転換がなされたことだろう。

  明治維新に主力となって活躍したのは「薩長土肥」といわれる四つの藩であった。薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前の佐賀藩である。この中で、薩摩、長州、土佐を中心とした政治的・思想的な活動は、歴史の上でも結構注目されることが多いが、佐賀藩はなぜか影が薄く注目度も低いようである。薩長土の三班に対して一歩も二歩も立ち遅れた感がする。幕末における佐賀藩は、やれ佐幕だ尊王だ、攘夷だ開国だ、倒幕だ王政復古だ、などの血なまぐさい争いから一歩距離を置いて、視線はむしろ西洋の動向に向いていたと思われる。イギリスの産業革命によって、蒸気軍艦と鉄製大砲を手に入れた欧米勢力のアジア進出、特に清国のアヘン戦争敗退による反植民地化の情報は欧米諸国の凄まじい弱肉強食の魔の手が、ひしひしと日本にも迫っているという危機感を持っていたのである。佐賀藩は、政治的な動きが地味で少なかったとはいえ、幕末に蓄えてきた先端技術力、いわゆる鉄製の大砲や蒸気機関、蒸気船の製造能力、そして卓抜した陸海の軍事力は他藩を圧倒するものであった。戊辰戦争で佐賀藩は大いに活躍し、「薩長土肥」の一角を占めて、明治政府でも重要な役割を果たしたのである。

  九州の西遇にある、三十五万七千石の肥前佐賀藩は私の郷里である。この春、私は佐賀に帰り、郷土のいくつかの史跡を訪ねてみた。佐賀城本丸歴史館、鉄製大砲を造った築地と多布施の反射炉後、佐賀藩校の弘道館跡、鍋島家菩提寺の高伝寺、鍋島閑叟を祭る佐嘉神社、江藤新平夫妻が眠る本行事、大隈重信の旧居、福島種臣生誕地などであった。

  先人が築いた業績の素晴らしさに、いまさらながらに感動を覚えるとともに、百折不僥と云われるその労苦に対して、改めて深い敬意を表したことであった。

  私は、工業教育に長い間携わってきた人間として、電気もなく、満足のいく工具や工作機もない中で、陶磁器や刀鍛冶、鋳物などの在来技術を生かして、西洋の先端技術に独学・手探りで果敢に挑戦し続けた、日本の科学技術史上に燦然と輝く、佐賀藩の先人の偉大な一端を紹介できればと思って、この抽文を書くことにした。 

2、肥前の妖怪  鍋島閑叟(かんそう)     -- 学ぶことは合戦と思え ――

 佐賀藩第十代藩主、鍋島閑叟(本名は(なお)(まさ)、地元では隠居後の号で閑叟(かんそう)と呼ぶことが多いのでこの稿では閑叟と書く)は、17歳で家督を継ぎ30余年在位時代に様々な改革を断行し、佐賀藩を幕末の雄藩にのし上げてきた。幕末屈指の名君と云われている。

  司馬遼太朗の「肥前の妖怪」や「アームストロング砲」でも紹介されているが、「幕末、佐賀ほどモダンな藩はない」と、佐賀藩の先進性、開明性を評価している。他藩に先駆けて近代化を成し遂げた「近代化のトップランナー」だったのである。 

鍋島閑叟は江戸藩邸で生まれ育った。閑叟は6歳から17歳まで、傅育(ふいく)系である「寛政の三博士」の一人、古賀精里の子である古賀穀堂に厳しい指導を受け、閑叟もその修練によく応えたという。穀堂に鍛えられた青年藩主は相当の高学力であったともいわれる。穀堂は後年、佐賀藩の藩政改革の推進力となって活躍した人でもある。 

閑叟は藩主の座について、初めてのお国入りとして佐賀に向かうことになったが、大名行列の出発に際し、米屋や醤油屋や酒屋などの商人が売掛金の支払いを求めて藩邸に押しかけ、出発が大幅に遅れてしまった。佐賀藩亭は現在の日比谷公園の一角で、周囲は著名な大名屋敷が多かった。出発の遅れはすぐに噂になっただろうし、門出早々に屈辱的衝撃を味わされてしまった閑叟は、わが家中はここまで窮迫していたのかと改めてその窮状を知り、藩政立て直し改革の断行を固く心に誓ったのである。 

佐賀藩は1641年以来、幕府から筑前福岡藩と共に、1年交代で長崎港の警備(長崎御番)を命じられていたが、警備の費用は藩の自前でその負担は重く、藩の財政は火の車であった。 

さらには、前藩主(なり)(なお)の贅沢三昧な浪費も財政難を加速させていた。佐賀に着いた閑叟は、前藩主やそれを取り巻く重臣らの抵抗に悩まされながらも、粗衣粗食令を出して自らも実践し、藩役人の大幅リストラや借金の整理に奔走した。また、陶磁器・茶・石炭の産業育成を通して藩財政を改善していった。 

教育改革にも力を入れ、藩校「弘道館」を大幅に拡充したり、洋学を学ぶ蘭学寮を設置したりした。弘道館では、藩中の全子弟を6~7歳で就学させ、25~26歳で卒業させるという、現代の小学課程から大学課程までの一貫教育に似た教育を施した。そして厳しい試験制度をしき、所定の合格点に達しないと、家禄の8割を没収し、お役につくことができなかったという。「学ぶことは合戦と思え」という藩主の意向で、皆死に物狂いで勉強した結果、江藤新平、大隈重信、福島種臣、大木喬仁、佐野常民、島 義勇ら明治の功臣が数多く巣立ったのである。 

また、医学にも力を入れ、医学寮を設置したり、医者の免許制度を制定したり、種痘を自分の長男や娘に施して、幅広く天然痘の流行阻止に努めたりした。佐賀藩の伊東玄朴が神田に設けた種痘署は、後に幕府直轄の西洋医学所となり、東大医学部の前進となった。佐賀県立病院「好生館」は、閑叟が設置した医学寮の名前であり、150年以上経った今もその名を残している。 

3、長崎港警備(長崎御番) 

 徳川第3代将軍家光の治世に鎖国体制が確立するとともに、長崎港は日本で唯一の貿易港として認められ、オランダ人と唐人(中国人)にのみ長崎での貿易が許された。他に「薩摩口」や「対馬口」、「松前口」があったが、これらはいずれも相手が限られた局地的な交流であり、「長崎口」は西洋を垣間見る唯一の窓口であった。 

 徳川幕府は、通商を認めたオランダ人と唐人以外の外敵の侵入を防ぐために、1641年、筑前福岡藩と肥前佐賀藩に1年交代で長崎港の警備を命じた。長崎港の警備は財政的な負担は大きかったが、西洋や唐など国外の情報に接したり、西洋の知識を得たりする機会も多く、佐賀藩の国際感覚も醸成されていったといえよう。 

 新しく藩主になった若い閑叟は、仙台藩主の失政「フェートン号事件」もあり、長崎御番に対して強い責任感と使命感を持っていた。さらに先進的、開明的な閑叟は国外の情報や知識には関心が強く、長崎御番は常に閑叟の頭を離れない存在であった。閑叟が協力に進めた製鉄大砲や蒸気機関、蒸気汽船の藩自力での開発や、様式海軍の設立などは、長崎警備を一層強化し近代化を図ることがねらいであった。 

フェートン号事件  -イギリス軍艦侵入― 

 1808年に起きた「フェートン号事件」は、日本との通商が許されていなかったイギリスの軍艦がオランダ船に偽装して長崎湾内に侵入した事件である。産業革命後、強盛な海軍力を押し立てて七つの海に進出しているイギリスとフランスで台頭しヨーロッパ大陸を制覇しているナポレオン一世とが対峙し、ナポレオンの支配下に入ったオランダを敵国視したイギリスが、オランダ商船拿捕を狙って来航したのである。 

長崎奉行は当番年の佐賀藩に出勤を命じたが、佐賀藩はシーズンオフになっていたので、財政難から守備の人員を許可なく大幅に削減しており急場に間に合わなかった。松平長崎奉行は不始末の責任を取って、切腹自殺を遂げたが、遺書に佐賀藩の怠慢の抗議が書かれており、時の第九代佐賀藩主(なり)(なお)は、100日間の謹慎を言い渡されたのである。大藩三十五七千石の堂々たる国もち大名の藩主が、謹慎処分を受けるなど大変な事件であった。 

この事件で、佐賀藩では対外問題の難しさを嫌というほど痛感させられたのである。 

新しい長崎港防衛構想への決意  ―西洋技術に自力で挑戦― 

 閑叟は藩主となって帰藩すると早々に長秋警備を視察し、藩士を激励したりした。二度目の視察の時には、ちょうどオランダ船が入港していたので閑叟は乗船することを強く望んだ。藩主が外国船に乗り込むなど前代未聞の行動であり、前例しきたりを重んじる長崎奉行所は強く拒んだが、閑叟は初志を翻さなかった。奉行所はやむを得ず特別に許可を与えたが、以後、閑叟のオランダ船乗り込みは恒例となった。江戸幕府発足以来、250年間に、異国船を実体験した大名は多分閑叟だけであったであろうと云われている。閑叟は異国船の頑丈な構造を実見し、また会場から陸地を見渡すことで、改めて海防感覚を磨いていった。また、若い藩主の積極的な開放的態度は、佐賀藩士たちを強く感化し勇気づけたのである。 

1840年のアヘン戦争の情報もいち早く入ってきた。かねて日本では、お隣の唐(中国)を孔子・孟子を生んだ文化先進国として伝統的に畏敬してきたが、その大国がイギリスの凶暴な軍事力で手もなく打ちのめされ、反植民地状態へ転落したことを知り、明日は我が身と深刻な恐怖感を覚えたのである。イギリスという名称は、「フェートン号事件」の忌まわしい記憶もあり、閑叟は最も鋭敏に対応した日本人の一人であった。 

アヘン戦争後の1844年には、オランダ国王の国書を奉じた本国からの直航の軍艦が来航した。アヘン戦争後の世界情勢に鑑みて、日本の鎖国維持は早晩困難になるので、自発的に開国するのが得策であろうと友情的な酷暑の内容であった。 

閑叟はオランダ軍艦滞留100日間に5度も長崎に出張し、警備に万全を期すとともに、今度も渋る長崎奉行を口説き盛大な威儀を整えて訪艦した。幕府の優柔不断な対応に業を煮やしていたオランダ使節は、閑叟の積極的な態度を大歓迎して艦内を隈なく案内してくれた。これまで見慣れたオランダ商船とはけた違いに強力な軍艦ならではの武装を見せつけられ、海防の厳しさを改めて痛感させられたのである。 

アヘン戦争の情報やオランダ軍艦見学の実体験から、閑叟は長崎防衛構想を大きく前進させた。長崎湾口に新台場を築造し、高性能の様式鉄製大砲100門を配備するという壮大な計画であった。 

新台場築造は在来工法の枠内であったが、様式鉄製大砲の製造は、製品輸入にも外国人技術者にも頼らずに、佐賀藩の自力で開発し製造することを決意した。鎖国中の日本では、お雇い外国人の力を借りるわけにはいかなかったのである。1850年に幕閣の了承を得て、前人未到の挑戦が始まった。それはアメリカのペリー来航の3年前であった。 

4、反射炉建設  -鉄製大砲の製造に命を懸ける― 

 反射炉とは、耐火煉瓦の炉で煙突の頂上まで含めると高さ15メートルほど。炉の内部は天井がドーム型で、炭や石炭を燃やす焚口と、鉄材を投入する鋳口とが少し離れている。燃料を燃やした熱がドーム天井に反射して、鉄材を溶かす仕組みで、そこから反射炉と云った。それまでの鋳物はこしき炉を用い、鉄材を真っ赤に燃える炭と混ぜて溶かした。すると鉄に炭素が取り込まれてもろい鉄しかできず、大砲には向かなかった。反射炉では鉄材と燃料を離すことで、炭素の問題を解消したのである。 

 反射炉は佐賀の築地(現在の佐賀市立日新小学校校庭)に4基建てられたが、耐火煉瓦の製造、高温を出せる燃料、良好な原料鉄など問題は山積していた。反射炉の築造と共に大砲の砲弾が通過する砲孔をくり抜く作業も大変であった。くり抜く刃物は刀鍛冶の技術が使われたが、回転させる動力が問題であった。最初は人力によったが、後には水車が用いられた。水車を動力とした旋盤である。いずれにしても1冊の洋書だけを頼りに独学で手探りの試行錯誤が繰り返された。失敗に失敗を重ね、大砲製造を担当した火術方は、製造不可能と判断し、切腹して責任を取りたいと願い出るほどであった。しかし、藩主閑叟の言葉を尽くしての説得に事業は継続されたのである。本当に命がけのプロジェクトであった。鉄製大砲は日夜刻苦勉励して試験研究を尽くし、第13次にやっと実用に耐える製品が生まれた。在来技術を活用しての佐賀藩火術の「百折不僥」の奮闘は、日本科学技術史上に燦然と輝くものであった。 

  「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も人なり、退屈せずますます研究すべし」 

   佐賀藩より4年遅れて鉄製大砲製造に成功した、薩摩藩主、島津斉彬の自藩技術者への激励の言葉である。

    西洋人も佐賀人も薩摩人も同じ人間だ、弛まぬ努力が必要だということであろう。

 実用に耐える大砲は1852年ペリー来航1年前に完成し、出来上がった大砲は次々に長崎港の新台場に据え付けられ、長崎の防衛力は一段と向上した。佐賀藩の声明は全国に鳴り響き、諸藩からの注文や技術伝習の依頼が殺到したという。

 5、黒船来航と佐賀藩 

 1853年アメリカのペリー艦隊、いわゆる黒船が4隻やってきた。うち2隻は蒸気機関を備えていた。寄港したのは日本が認めた長崎港ではなく、江戸に近い浦賀沖であった。幕府は黒船の威嚇に屈して、国禁をまげてアメリカ大統領の国書を受け取ったのである。ペリーが再来を予告して日本を離れて10日後、江戸城では第12代将軍徳川家慶が死去して取り込みの真っ最中であった。だがその合間をぬって老中首座の阿部正弘は、佐賀藩に江戸品川台場配備用の鉄製大砲200門を大至急に製造してくれないかと尋ねた。まさに泥縄式だったが、幕府はアメリカの脅威に対抗する軍事的手段を大急ぎで整えようとしたのである。黒船来航以前に、実用に耐える鉄製大砲を自力で製造し配備している唯一の藩であった佐賀藩では、とりあえず50門を至急納品することを約束した。ところで武力で天下を制覇した徳川将軍家は、諸大名に軍事奉仕という軍役(ぐんやく)を命ずることはあっても、軍事援助を求めることはいまだなかったことである。ところが、いざ黒船危機に直面して阿部老中は、見栄も外聞も捨てて、外様大名に軍事援助を求めたのである。このことは、征夷大将軍という武威に致命的な傷をつけ、徳川幕藩体制の崩壊は、ここに始まったと云えるかもしれない。なお阿部老中は、鉄製大砲を佐賀藩に依頼する傍らで、幕府による製造も企画し、韮山大管江川太郎左衛門に開発を命じた。1854年に韮山で反射炉築造が開始されたが難航し、阿部老中は佐賀藩に技術援助を要請した。佐賀藩では技術者2名、職人4名を現地に派遣して協力し、ようやく完成に導いた。これが産業文化遺産として現存している伊豆韮山反射炉である。 

6、製錬方(理化学研究所)  ―蒸気機関の製造― 

 鉄製大砲製造に成功した1852年、理化学研究所に当たる「製錬方」が開設された。鉄製大砲を製造するための動力としての蒸気機関の製造がねらいであった。製錬方は化学薬品の研究や、カメラ、電信機、ガラス、機械、金属など多方面の技術開発を行ったが、重点課題の一つは、蒸気機関の開発であった。蒸気機関こそは、19世紀産業革命を象徴する最先端技術の精髄ともなされていたからである。製錬方では、オランダ人から購入した小蒸気船を分解して詳細に研究し、実際に動く蒸気船(汽船)と蒸気車(汽車)の精巧な模型を製作した。小さな模型の汽車は、1855年の夏に、藩主閑叟をはじめ重臣や弘道館の寮生たちが見守る中で試運転が行われ、汽笛を鳴らして楕円の軌道をはしった。これらの模型は、現在、鍋島家の博物館、徴古館に保管されている。実用的な蒸気船が建造されたのは、10年後の1865年に三重津海軍所で進水した「涼風丸」であった。 

 佐賀藩が自力で建造したのはこれ1隻である。幕府が外国船輸入を解禁し、手間暇かかる自家製の不経済が自覚されたからである。また製錬方で製作された電信機は、閑叟の従兄弟にあたる薩摩藩の島津斉彬にも送られたという。 

7、佐賀藩海軍の拠点「三重津海軍所」 

 佐賀藩では欧米の急速なアジア進出に伴い、海外との窓口であった長崎の警備を一層強化するために、いち早く洋式船を手に入れ、西洋の船舶技術を導入し、洋式海軍を設立した。その拠点となったのが三重津海軍所である。幕府は、1855年にオランダから海軍共感段を招き、長崎に海軍伝習所を開設して、軍艦の操船と共に造船技術の指導を行った。当時の軍艦は、蒸気機関に海水を用いていたので傷みやすく、常にメンテナンスが必要でそのためにも造船所が必要であった。この造船所は後に岩崎弥太郎に払い下げられ、今も三菱重工の造船所として稼働している。 

 長崎の海軍伝習所には幕臣48名が入所し、諸藩にも門戸を開いていたので、佐賀藩からも48名が入所した。この海軍伝習所は、江戸築地の軍艦操練所が軌道に乗ると閉鎖された。ここで学んだ佐賀藩の卒業生は、三重津海軍所で航海術、造船術、砲術、測量術など後進の指導に当たったり、造船所の建設に携わったりした。日本初の実用蒸気船「涼風丸」はここで建造された。ここでは幕府軍艦のための蒸気機関も製作して、幕府の軍艦の西洋化に貢献している。三重津は佐賀藩の近代的海軍の拠点となり、幕末までオランダ製の輸入軍艦や帆走船も合せて13隻の艦隊で組織されたという。これらの功績を今に伝えるのが、現在の佐賀市川福町にある「三重津海軍所跡」である。 

ここは日本最古のドック跡で、幕末の海軍の様子や、日本伝統技術や、自然環境を巧みに使った洋式船の運用法などが、具体的に分かる貴重な遺跡である。平成25年に国史跡として指定され、2015年(平成27年)に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。 

8、肥前の妖怪動かず 

 日本初の実用蒸気船「涼風丸」が建造された頃、佐賀藩では新式銃陣の訓練を行っていた。砲腔内に旋条があり、弾は椎の実型で、飛距離も方向性も格段に優れたエンフィールド銃であった。またアームストロング式野砲の製造も手掛けており、明治維新直前の佐賀藩は、陸海軍とも最新最強の軍備を整えていたのである。「佐賀藩兵四十名あれば、他藩の兵千名にあたる」とも言われるほどであった。 

 幕末の時世も急転し幕府は崩壊への歩みを速め、大政奉還、続いて王政復古を迎えることになる。これほど高い軍事技術力を持つ佐賀藩は、官軍側から味方に付くことを強く求められたが、病気がちだったとはいえ閑叟は、土壇場まで新幕的態度を捨てず、肥前の妖怪と恐れられながらも、積極的に動こうとはしなかった。 

 佐賀藩が官軍への味方を明らかにしたのは、鳥羽伏見の戦いのほぼ一か月後の戊辰戦争からであった。彰義隊を一日にして壊滅させた上野の戦い、あるいは白虎隊で名高い会津の戦いに佐賀藩自慢のアームストロング砲が威力を発揮し、その活躍によってまがりなりにも「薩長土肥」の一角を占めることができたのである。 

9、あとがき

 幕末の大激動期に、諸藩の政治的・思想的闘争にはほとんど関心を示さず、欧米諸国の動向に強い関心を持ち、他藩に先駆けて西欧の文明を求め、欧米諸国の近代工業の水準に追いつくことに生涯をささげた藩主は、私の郷里、佐賀の鍋島直正(閑叟)であった。幕末屈指の稀代の名君とも言われている。薩摩藩主、島津斉彬と並び評される程の先進的、開明的な藩主で、二人は母親が姉妹の従兄弟であった。閑叟が親幕的態度を容易に捨てられなかったというのは、閑叟の奥方が将軍の娘であったことを思えば頷けることでもある。 

 産業革命後の工業技術と言えば、なんといっても鉄製大砲と蒸気機関と蒸気船とであった。特に鉄製大砲を、外国人の手を借りることなく、製品輸入することもなく、一冊の洋書を翻訳し、独学手探りで作ろうと云う挑戦は、大変な決意であったと思われる。それを乗り越えて、トルコ以東では洋式兵器を製造できるのは佐賀藩のみである、と言わしめた佐賀藩先人の偉大な功績は、日本の科学技術史上に燦然と輝くものであろう。日本の産業革命を成し遂げ、明治維新を推進したのはあるいは佐賀藩であったかもしれない。 

 私がこの稿を書くのに10数冊の本と若干の資料を参考にした。幕末維新期の歴史は、複雑怪奇で変化が激しく本当に驚かされることが多かった。その分面白いと言えるかもしれないが、専門家でない私には本当の理解は難しいようだ。 

 終りに私は佐賀藩校の弘道館の流れをくむ旧制佐賀中学校を卒業したが、「学ぶことは合戦と思え」という言葉が、真剣に学ばなかった私の心にいつまでも残りそうである。

                     (平成29年8月15日   米寿を記念して)

 

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