「日本産業教育の父」佐藤孝次先生を偲んで    池永武喜

 

 東京都立工業高等学校に於いて、37歳で校長となり、戦前、戦中、戦後を通じて30年間同一校に校長として在職した奇跡的な校長先生です。現在の間隔では信じられない経歴の方ですが、幸いその学校に勤務したものとして、後輩の皆様方に是非「日本の産業教育の父」としての経歴を申し上げたいと思います。

 先生の存在は、日本復興のあけぼのでした。

 昭和10年板橋区富士見町(現在地)に北豊島商工學校の新校舎が創建されました。鉄筋コンクリートの白亜の校舎で、当時としては珍しいスチーム暖房、水洗トイレの白亜の殿堂と云われ、屋上からは、地名のとおり白亜の富士山を望むことができて、生徒の誇りでした。校歌にも「白亜の殿堂」とうたわれ、佐藤校長先生の自作でした。

 機械科においては最初からベルト掛旋盤の生徒実習を目指して機械設備を充実し、それに対応できる教員を採用して残し生徒の指導に当たれました。

 勿論有給でしたから製作した旋盤は軍需産業等に納めて研究生の経費に充てていたようです。

 昭和12年には日支事変が始まり、戦時体制で、鉄、銅等の資源が欠乏し、配給制となりました。

 私は昭和14年頃H社に勤務していましたが、売るよりも原材料の確保が先決でAランクの軍需産業や金山関係を優先されました。従って佐藤校長は材料確保に一方ならぬ苦労を重ねられたことと思います。終戦でまで200台を製造し、戦後は20台が生徒実習用に使われ、1年生の旋盤実習で、ベルトの掛け換えに苦労したことは、忘れられない思い出です。戦後30年間 生徒指導に貢献しました。

 当時日本の工作機械工業は非常に立ち遅れていた為それを挽回するための教育方針ではなかったかと思います。

 戦火が激化し、東京は焼け野原となりました。多くの都立校も消失し戦後も長く授業困難となりました。

 北豊島工は鉄筋コンクリートの為消失は免れ、機械設備も万全でした。消失した板橋区役所が講堂に間借りしていたこともありました。佐藤校長こそは都有財産を保全した事だけでも特賞に価するとおもいます。

 戦後はマッカーサーの命令で工業教育の再興は禁じられ、六、三,三制が強要され、義務教育の延長、新校舎の建設で文部省の予算は全てそちらに廻されました。工業教育の要は多くの実習設備ですが、戦後の物資不足で復興は遅々として進まず放置状態でした。

 北豊島工はその中にあって平常授業が行われ、実習も完全でした。校長の方針で時代に即応した生産実習を再現しました。

 佐藤校長は全国の工業高校のみならず、その他の産業教育の校長会の会長となり、産業教育の復興の第一線に立ちました。学校は水曜日の職員会議に出席して教育方針を指示し、あとは教頭に任せて全国を飛び廻っていました。

 政治的には当時の自民党の若手議員と協議して「産業教育振興法」の成立を目指して活躍しました。マッカーサーは命令に服さぬ者は沖縄で強制労働に服させると豪語していた時代ですから命をかけての活躍でした。

 しかも佐藤先生の奥様は重病の床にありながら全国を立ち廻り趣旨を説明して支持を受けました。

 昭和26年6月国会に於いて議員立法の第1号として「産業教育振興法」が成立しました。

 これにより中、高、大学の産業教育の充実に国家予算から大幅に補助されることになり、各校は漸く復興の見通しが立つことになりました。

 産業教育振興法は議会で討議され、議員立法第1号として成立したため民主主義の手前マッカーサーも手を出せなかったのだと思います。

 結果的には高校のみならず、大学の設備も充実し団塊の世代の教育に素晴らしい成果を及ぼし、日本の経済復興の原動力となりました。佐藤校長は「産業教育の父」と云われています。

 佐藤校長は昭和30年に退職後、新宿にあった工学院大学付属高校の校長になり、昭和37年11月7日午後4時頃校長室に於いて突然死を遂げられました。まさに工業教育に殉死されたことになります。

 佐藤校長の開発したベルト掛け旋盤は構造簡単、取扱い容易で安全性が高いので低学年の実習に最適でした。

 昭和35年正月に機械科の新年会で「本校の伝統の旋盤政策を復活しては・・」と提案した処、皆の賛成を得て、早速かつての研究生で教員になっていた先生方で設計にとりかかりました。東京都教育委員会に設計書を提出した処、許可も下り研究組織を結成して具体的活動を始めました。

 モーター直結の最新式旋盤で生徒の制作が容易なこと、現有設備で製作可能なこと、安全作業第一に留意して研究を開始しました。特に全ての機械設備は戦時中の酷使で相当制度が低下していたので本格的修理を行いましたが産振予算のおかげで全て新品同様に修理いたしました。

 昭和38年度から正式に授業として編成いたしました。

                     学級数    40名×3学級=120名

      学習単位数  4単位(140時間×120名)=16,880時間

      実習日程   木曜・金曜 7時間授業

     (連続実習) (朝830分~午后4時)

 

      1

 

2

 

      3

 

         91日   ←  7週  →       1031日        ←  7週    →         1225日       ←  7週  →            310

                    学校行事と等と重なり7週の確保は困難

                     完成目標  39310日卒業式

            卒業生、父母列席・除幕式

 

 一号機は初体験のため卒業試験終了後希望の生徒をの協力を得て実習を行い、卒業式の前夜見事完成

  3月の夜は毎晩寒かった事。 その中で生徒はよく頑張った事。 職員も子終電で帰り、翌朝定刻で全員出勤

  一人の事故者もなくラッキ―でした。

  除幕式

  昭和39310日卒業式終了後

  機械科卒業生と父母出席の下除幕式を行う

  命名     オリンピア号旋盤1号機

  学校長 スイッチ  ON     卒業生代表  見留君    試運転

   旋盤の快音とともにバイトの刃先から白銀の切粉が流れるように削り出された瞬間、万雷の拍手とともに

   涙があふれでました。

  地元は中小企業の父母が多く感激はひとしおでした。

  後日旋盤の制度を測定した処、JES規格をほとんどクリアーして市販の旋盤に劣らない事が判りました。

   この奇跡はベルト掛け旋盤を作った時代の時術が生きていた事で、佐藤校長の偉大さが判りました。

   日本は時あたかも東京オリンピックの活躍で世界一のブームの時代でした。

   東京オリンピックのハイライト、女子バレーを観戦して優勝したっ瞬間、俺たちも世界一の工業教育を成し遂げたと自信を深める

   ことができました。

   この成果を次のような研究会を実施し、生徒実習を見学して研究報告を行いました。

          昭和40年   東京都機械工業教育研究会

          41年   関東地区機械工業教育研究会

          42年   文部教研全国大会 各県代表5名出席

  結論

  オリンピア号旋盤は毎年1台づつ10年間製作しました。

  オリンピア号旋盤1号機(1964年3月10日完成)~10号機(1973年3月10日完成

  ゆとり教育で7時間の授業が廃止され実習は中止となりました。奇跡は信じられない形で表れました。

  2,0101028日~112日 第2回東京国際工作機械見本市(JIMTOF)が開催され「工業高校による手づくり旋盤オリンピア号」の展示を要請されました。まさに世界トップメーカーに伍しての出品です。

  製作から40年以上をけいかして、人間なら定年退職を迎えてます。幸い1号機から生徒指導に当たった若手の窪田和人先生(北豊島工卒)が健在で、一人でオバーホールを行い出品することができました。期間中の解説にも当たり世界角国からの専門家が見学に来られ、専門技術のことで和裁は尽きなかったそうです。

  正に前代未聞、空前絶後の快挙に世界一の工業教育と実証されたと信じています。

  平成6113日に佐藤先生の33回忌の法要が同窓会(白亜会)主催で行われました。元文部大臣からの丁重な追悼文を戴き、戦争中の

 卒業生も多数参加して思い出話がつきませんでした。

  ここに先生の偉大な業績をたたえてご冥福を祈りあげます。